大正9(1920)年11月(*1)、竹鶴政孝・リタ夫妻、摂津酒造の阿部喜兵衛社長(欧州視察)と伴に、横浜港へ帰国。
*1 「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。
「ヒゲと勲章」では大正10年9月、「ウイスキーと私」では大正10年11月とある。
帰国後の摂津酒造での待遇は技師長で、月給は150円。家賃55円の帝塚山の家は、阿部社長が手配して下さった邸宅(家主はのちにニッカ・ウヰスキー株主の芝川又四郎)であった。
帰国してみると、会社の景気といい空気といい、イギリスにたったころの熱っぽさや活気は全く失われ、様相は一変していた。それは摂津酒造が第一次大戦後の大恐慌のあおりをいちばん受けている年(大正10~12年)だったからである。
こういった悪い状況のなかであったが、すぐ本格ウイスキーの製造計画に取りかかった。
そのかたわら、先輩の岩井常務に説得を始めた。今の工場のあき地にポット・スチルをすえつければ小規模ながらウイスキーがつくれる。やらせてほしいと頼みこんだ。
重役会でも阿部社長は
「竹鶴君が苦労して勉強してきたのだから、なんとかやらせてみたい」
と助け舟をだされたが、全役員から反対されてしまった。
「本格モルト・ウイスキー製造計画書」は役員会で否認されたのである。
常務の岩井喜一郎は、次のような回顧談を残している。
「竹鶴氏は帰国してから、外国ではウイスキーは全部自社ブランドで売っておる。ジョニーウォーカーにしてもホワイトホースにしてもそうだ。だから摂津酒造の如く、よそのブランドのために手間賃いくらで造ったウイスキーを(原料酒として)売っておるというようなことでは、将来マイナスになる。いい品物を造って自社ブランドで出していかなくてはいかん、と力説した。これは大変いいことだと思う。さりながら、当時の摂津の資力ではとてもそんなこと(本格ウイスキーの製造)は出来なかった」
さんざん悩み考えたすえ、阿部社長にお会いし辞表を出した。
大正11年のことであった。
「残念だが・・・」
ポツリとただひとこといわれた。
あのときの阿部社長の沈んだ顔、恩愛に満ちたあのまなざしは、終生忘れることはできない。阿部社長は私の最大の恩人なのである。
私は摂津酒造をやめたとはいえ、非常に恩義を感じていた。
後年、独立して待望のウイスキー原酒をつくりあげたとき、北海道からわざわざ大阪の摂津酒造までそれを持っていった。ニッカウヰスキー発売(1940年10月)以前のことである。
「どうぞ私の原酒を摂津酒造のアルコールに入れてみて下さい。絶対によくなります」
ところが私の真意は理解されず、問題にされなかった。
摂津酒造は、洋酒関係は自分のブランドをつけずに卸屋へ売り、卸屋で瓶詰していた。摂津酒造が瓶詰をやれば卸屋の妨害になるから、できなかった。
やはりブランドを持っていなかったことが、新しい時代にマッチできなかったのだろう。
竹鶴が摂津酒造を訪れたとき、阿部社長は退任していた。
昭和29年12月、摂津酒造は灘第二工場を寶酒造に売却。
昭和39(1964)年10月、摂津酒造は寶酒造に吸収合併。
桃字は、竹鶴政孝著「ヒゲと勲章」より。
黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
摂津酒造(1)。
摂津酒造(2)。
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