日本のウイスキーの父、竹鶴政孝(以下、敬称略)は書く。
摂津酒造の阿部喜兵衛社長が日本での本格ウイスキーづくりを決意されなかったら、どんなに私がウイスキーづくりに興味をもっていたにせよ、スコットランドに留学することはありえなかった。
摂津酒造は、名門であり資産家である阿部喜兵衛氏が、大阪に個人経営でつくった摂津酒精醸造所にはじまる。
明治40(1907)年からアルコール製造に着手し、44年からは自社で蒸溜したアルコールをもとに、ブランディ、ウイスキー、甘味葡萄酒などを委託製造した。製法はいぜん模造(イミテーション)だったが、アルコール特有の臭み(フーゼル・オイル)を消すセパレーターの研究が進んでいたため、品質はそれまでの国産にくらべ、格段の差があった。
大正2(1913)年にはウイスキーだけで250石(1石=約180リットル)を製造、翌3年には軍の注文も受けている。主な取引先は「赤門葡萄酒」の小西儀助商店、「ヘルメス・ウイスキー」「赤玉ポートワイン」の壽屋などで、それぞれの注文に応じて調合製造し、一石入りの洋樽に詰めて送り出した。
大正4年、第一次世界大戦が勃発した。日本経済は大戦景気に沸き、アルコール蒸溜業界も活況を呈した。すでに定評を得ていた攝津酒造の製品は生産が追いつかないほどであった。
大正5年、摂津酒造は会社始まって以来の黄金期を迎えようとしていた。
当時、摂津酒造、神谷酒造、大日本製薬が三大アルコール製造会社だった。
大正2年、竹鶴政孝、大阪高等工業(現大阪大学)醸造科に入学。
大正5年、卒業の年の正月のことであった。
郷里に帰り、部屋のコタツでねそべっていた。家業を継ぐことになった私はこのとき、これからの長い人生を竹原という田舎町で、酒づくりに終わってしまうのかという感慨が胸をかすめた。
日本酒の仕込みは冬だから卒業の4月末から12月までは、仕事はあまりない。学校で人一倍洋酒に興味をもって勉強してきた私は、この期間だけでもいいから洋酒づくりの仕事を一度実際にやってみたいと思い立った。
「やってみたい」
そう思い始めると矢も楯もたまらなくなった。
当時、洋酒のメーカーの第一人者は、大阪の摂津酒造であった。
学校の一期生に摂津酒造の常務・岩井喜一郎氏(竹鶴は14期生)がおられた。
「よし、岩井さんに頼んでみよう」
岩井さんは、即刻社長の阿部喜兵衛氏を紹介して下さった。
私は、家の事情や、洋酒づくりへの憧憬を正直に披瀝した。
「洋酒製造の第一人者たる摂津で働きたいのです」
「それじゃ、明日から来てみなさい」
大正5年3月初旬のことだった。初任給23円。
天下の摂津酒造といっても、その規模といえば、事務所に5、6人、工場のほうに30人もいただろうか。
私は、職工と同じように作業服を着て、喜び勇んで仕事を続けた。蒸溜のときなど、夜は蒸溜塔の上でまんじりともせずに過ごしたおぼえがある。
やがて私は、酒精含有飲料関係の主任に任命された。
ある日、社長室に呼ばれた。
「いまは好景気だから、ウイスキーもさかんに売れている。けれども、アルコールに水を入れカラメルで色をつけ、エッセンスを入れて香りを加える。
いつまでもこんなイミテーション・ウイスキーではいけないから、本格的な品質のよいウイスキーをつくりたい。君、ひとつスコットランドに行って、本場のウイスキーの製造を勉強してきてくれないか!」
大正7年6月29日、竹鶴は家族、摂津酒造の役員、社員、壽屋の鳥井信治郎、山為硝子の山本為三郎(のちのアサヒビール初代社長)らに見送られて、神戸港からスコットランドへ向けて出航。
桃字は、竹鶴政孝著「ヒゲと勲章」より。
黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
緑字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。
摂津酒造(1)。
摂津酒造(2)。
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