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山崎蒸溜所(3)。

(発売当初の赤玉ポートワイン<右>とサントリーウィスキー白札)




摂津酒造(注釈:昭和39年10月、寶酒造(現宝ホールディングス)に吸収合併)は明治40(1907)年からアルコール製造に着手し、明治44年からは自社で蒸溜したアルコールをもとに、ブランディ、ウイスキー、甘味葡萄酒などを委託製造した。
主な得意先は「赤門葡萄酒」の小西儀助商店、「ヘルメスウイスキー」「赤玉ポートワイン」の壽屋など。

独立して間もなく、鳥井信治郎(以下、敬称略)にはラッキーな事件が起こった。
当時、業界の王座を占めていた蜂印香鼠葡萄酒が小売店の陳列棚で沸騰したのである。一軒だけでなく、次々に爆発した。製造上の手ちがいがあったのだろう。
このために赤玉ポートワインの人気が上昇した。

竹鶴政孝が当時手がけていた有名銘柄の一つに、壽屋の「赤玉ポートワイン」があった。この製品を作っていた年(注釈:大正5年と推測される)、各地の店頭で甘味葡萄酒が爆発する騒ぎが起った。殺菌が不充分なため、生き残っていた酵母がおりからの暑さで醗酵してしまったのである。ところが「赤玉ポートワイン」だけは1本も割れなかった。
「今度来やはった技師さんは腕がよろしゅうおますな、いうて、壽屋の鳥井はん喜んではった」
摂津酒造の阿部社長は自分のことのように喜びながら竹鶴に伝えた。

英国留学の出発当日(大正7年6月29日)、正午を廻って出航時刻が近づくと、神戸港第二波止場、通称メリケン波止場は見送りの人並みで埋まった。
竹鶴のまわりにも厚い人垣の輪ができていた。阿部社長、岩井専務以下摂津酒造の全社員、竹原の両親と姉妹たち、取引先関係者のなかには壽屋の鳥井信治郎、この秋に日本製壜を興すことになっている山為硝子の山本為三郎(のちのアサヒビール初代社長)の顔も見える。

信治郎がウイスキーの製造を発表すると、壽屋の全役員が反対した。
・スコットランド以外の土地でウイスキーが成功した例がない。
・ウイスキーをつくるには、6年も7年も原酒を寝かせなければならない。その間の資金や金利をどうするのか。
・樽をあけたあとでも、いいものが出来ているか悪いものが出来ているかわからない。
しかし、信治郎はすべての反対を押しきってしまった。
信治郎は理屈めいたことをいわなかった。
「やってみなはれ。やらなわかりまへんで」

信治郎は、三井物産に頼んで、本場のイギリスからムーア博士を招く計画をたてていた。そのとき、イギリスでウイスキーづくりを勉強して帰ってきた青年技師がいることを(ムーア博士から)教えられた。それが竹鶴政孝である。

竹鶴はつい最近摂津酒造を退社、現在は勤めに就いていないはずだ、とも付記してあった。
そうや、竹鶴君がおりよった。
鳥井は5年前、青年の洋行に当って神戸港に見送りに出かけたことを思い出した。摂津酒造と取引きが少なくなるにしたがい(注釈:大正8年、大阪市港区に赤玉ポートワイン瓶詰専用工場を建設)疎遠になっていたが、あの竹鶴なら腕も人物も信用できる。
同じ招くなら、外国人より日本人の方が何かと好都合ではないか。

高額な年俸4,000円(注釈:総理大臣が1,000円)も当初、ムーア博士招聘の条件として提示した額だという。同じ仕事をして貰うんやさかい、当然同じおあし払わせて貰います。
鳥井がここまで自分を信じてくれるのかと思うと、竹鶴は嬉しかった。

  青字は、「サントリー70周年社史」より。
  緑字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。

#サントリー

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