鳥井信治郎(以下、敬称略)が竹鶴政孝を招聘するに当って合意した条件は三つ。
1.ウイスキー製造に関してはすべて竹鶴に任せる。
2.そのために必要な資金を用意する。
3.竹鶴は製造が軌道に乗るまで10年間は働く。
サントリー70周年社史は書く。
「大正の末(大正13年、山崎工場竣工)から昭和12年(サントリーウイスキー角瓶発売)までにサントリーの今日の基礎が築かれていったと考えてよいと思う」
いくら赤玉ポートワインその他で儲けても、利益をどんどん吸いとる一方である。まことに「ウスケ」は化け物だった。
その間、信治郎は手をこまねいていたわけではなかった。いや、むしろ、ウイスキーのために、他の事業を拡張しなければならない。
大正13(1924)年
10月、パームカレー発売。レチラップ(レモンティーシロップ)発売。
大正15(1926)年
喫煙家用半練の「スモカ歯磨」発売。
昭和3(1928)年
山崎醤油、トリスソース発売。
12月1日、日英醸造株式会社(カスケードビール)を買収し、横浜工場(竹鶴が工場長を兼任)とする。
昭和4(1929)年
4月1日、日本発の本格ウイスキー「サントリー白札」発売。
4月、カスケードビール発売。
昭和5(1930)年
5月、商品名をオラガビールに改称。
トリスカレー、トリス胡椒発売。
昭和6(1931)年
トリス紅茶発売。
昭和6年には仕込みを行わなかった。出来なかったのである。金が底をついたのである。従って壽屋の酒庫には「1931」という年号を記した樽が無いのである。
昭和7(1932)年
5月、合成清酒「千代田」発売。6月、濃縮リンゴジュース「コーリン」発売。
11月、ドル箱のスモカ歯磨の製造販売権を譲渡。
昭和9(1934)年
2月、ビール事業を分離、譲渡。
67万円で買収したビール工場の売却価格は300万円とも360万円ともいわれた。(*1)
「竹鶴はん、知ってのとおり、わてらの台所火の車やったんや。さあ、もう安心やで」
*1 金額は諸説あり。
昭和10(1935)年
リンゴ酒シャンパン「ポンパン」、「ヘルメスデリカワイン(赤・白)」、「ヘルメスシャンパン」発売。
昭和11(1936)年
濃縮ジュース「トリスグレープジュース」「トリスオレンジジュース」、「ヘルメスドライジン」、「ヘルメスイタリアンベルモット」、「カンロチュウ」発売。
昭和12(1937)年
「サントリーウイスキー12年もの(亀甲型)」(角瓶)を発売。
サントリーウイスキー角瓶にいたるまでにこれだけの歴史があった。
戦いに敗れ、傷つき、退いた。紅茶、ソース、醤油、カレーなどがそれだろう。ひとつの柱であったスモカを手ばなした。
昭和12年、13年に、次第に、サントリーは日本人の舌に浸透していった。
14年、15年には、売れて売れて困るという事態を招来する。壽屋の社員には、年間のボーナスが40ヶ月も50ヶ月も支給された。
鳥井は竹鶴との約束どおり、ウイスキー製造に必要な資金を遮二無二、用意したのである。
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