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山崎蒸溜所(1)。



ご存知のように、日本で最初のウィスキー蒸溜所である。
壽屋(現サントリー*1)創業者・鳥井信治郎(*2)(以下、すべて敬称略)がいなかったら、日本のウィスキー産業の成立はかなり遅れただろうし、竹鶴政孝(*3)は一介の化学の教師で終わり、ニッカウヰスキーは生まれていなかったかも知れない。
 *1 鳥井の死後、1963年に社名変更。
 *2 1879年1月30日 – 1962年2月20日(享年83歳)
 *3 1894年6月20日 – 1979年8月29日(享年85歳)

山崎蒸溜所の建設からサントリーオールドの誕生までを、手元の「サントリー70周年社史」(1969年。青字で表示。以下の写真は社史より)と、「ヒゲのウヰスキー誕生す」(1982年。緑字で表示)をもとに年表にしてみた。

  ++++++ 山崎蒸溜所年表 ++++++

大正12(1923)年 (信治郎 満44歳)
春    
鳥井信治郎が竹鶴政孝を訪ねて、入社を要請。
鳥井から提示された条件は3点。
  1.ウイスキー製造に関してはすべて竹鶴に任せる。
  2.そのために必要な資金を用意する。
  3.竹鶴は製造が軌道に乗るまで10年間は働く。

6月
竹鶴政孝入社。(満29歳)

7月
7月27日付「工場候補地議定書」には、「山崎駅付近は水質最も良く、且つ河水の便あり。交通よくして理想なる敷地あり」と記す。

10月1日
かねて企画研究中の国産ウイスキー醸造の成案を得、まず大阪府三島郡島本村大字山崎に、用地を買収、工場建設準備に着手。
再度にわたる水質検査を経て、10月1日に用地買収を済ませた。
壽屋は大阪東区住吉町に店舗を構えていた。その一角に、山崎工場建設事務所が設置された。

12月28日
ウイスキー製造免許に関する申請書を大阪税務監督局へ提出。

大正13(1924)年
4月7日
山崎工場にウイスキー製造免許下付される。

4月15日
山崎工場、起工式挙行。

7月
山崎工場予定地では、着々建築が進んでいた。

7月20日
単式蒸溜器2器が川蒸気に乗せられ、淀川を遡った。陸揚げののちは転子(ころ。回転棒)を使って馬に引かせた。真夜中の零時半、上り最終列車が通り過ぎるのを見計らい、東海道線の線路を越えてようやく工場内に運ばれた。

10月
ウイスキー職人を養成するにあたり、竹鶴が真先に思い浮かべたのは、郷里竹原の隣町三津の杜氏だった。杜氏を監督に据え、ほかに蔵人を15名ほど雇い入れて配置するつもりだ。杜氏ら一行が到着したのは、竣工式直前の10月下旬だった。
ウイスキーの製造期間は10月から5月までである。工場では季節雇いの職工が大部分を占め、壽屋正社員は工場長の竹鶴、事務担当の白江滋道二人だけだった。

11月11日
山崎工場竣工、12月より蒸溜作業を開始。

12月2日
麦芽製造が開始された。第一号浸漬槽(スティーブ)に浸されたのは午後3時。
2週間ほどののち 大麦は乾燥室に運ばれ、豊かな薫香をもつ麦芽として生れ変った。

(原料麦の発芽室)



大正14(1925)年
1月
麦芽は糖化、発酵を経ていよいよ蒸溜を迎えた。
蒸溜を終えた液体はシェリー酒用酒樽に詰められ、倉庫に運ばれた。

(初期のポットスティル)



大正12年に入社した白江滋道は、山崎工場勤務を命ぜられた。わるいときに入社してしまった。
毎年、麦を仕入れるだけで製品が出ていかないのである。
「早う製品にならんかいな」
本社へ顔をだすたびに、いやみな皮肉を言われることになる。

昭和3(1928)年

秋を迎えたある日のことである。
「竹鶴はん。今度の冬で丸4年だすな」
鳥井が何を言いたいのか、竹鶴は次の言葉を聞くまでもなくわかった。
竹鶴は発売に向けて、大阪工場でできたアルコールとブレンドする手筈を整えた。

12月22日
会社事業目的にウイスキー、麦酒の製造販売を加える。

昭和4(1929)年
4月1日 
山崎工場に貯蔵をつづけた原酒を瓶詰し、わが国初の本格ウイスキー「サントリーウイスキー白札」を発売。

(国産ウィスキー第一号を記念して)



昭和5(1930)年
5月1日
「サントリーウイスキー赤札」を発売。
「サントリーウイスキー白札ポケット瓶」を発売(最初のポケット瓶)。

鳥井、竹鶴の契約期間延長を打診。
鳥井 「吉太郎がもうじき学校卒業やが、一人前に仕事でけるようになるまで、10年間と言わずに居ってもらいたいのやが」
竹鶴 「よろしゅおます」

この年の山崎工場年間の庫出数 2,125ケース

昭和6(1931)年
3月1日
長男鳥井吉太郎入社。

10月1日
鳥井吉太郎、欧米における業界視察のため出発。

山崎工場年間の庫出数 4,542ケース
このころから海外市場(満・韓・東南アジア)へ輸出を始める(354ケース)。

(注釈:この年、資金不足でウイスキーの仕込みを中止)

昭和7(1932)年
2月
竹鶴がリタと吉太郎を伴い欧州視察から帰国。

3月15日
鳥井吉太郎、取締役副社長に就任。

10月1日
10年貯蔵の「サントリーウイスキー特角」を製造発売。
山崎工場年間の庫出数 10,230ケースとなる(輸出1,271ケース)。

昭和9(1934)年
1月17日
サントリーウイスキーを禁酒解禁後のアメリカへ輸出(1,667ケース)。

3月1日
竹鶴政孝氏退社。

7月2日
大日本果汁株式会社設立(現ニッカ)。

昭和10(1935)年
戦前のバー全盛時代、銀座で500軒に達す。

昭和12(1937)年
10月8日
「サントリーウイスキー12年もの角瓶(亀甲型)」を発売。

12月10日
山崎工場増築に着手(翌3月に完了し、延建坪1,799坪となる)。

昭和13(1938)年
5月10日
大阪梅田に当社直営のサントリーバーを開店し、当社洋酒製品のPRを行なう。

昭和14(1939)年
山崎工場ウイスキー年間庫出数 23,600ケースとなる(軍納3,150ケース)。

昭和15(1940)年
9月23日
取締役副社長、鳥井吉太郎死去(享年33歳)。(満31歳)

11月15日
「サントリーウイスキーオールド製作」発表。

昭和25(1950)年
「サントリーウイスキーオールド」発売。

#サントリー

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