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ウイスキーに携わる人々(4)

          
(スコットランド・スペイサイド地区)ウイスキーに関わって来た人々の話です。スコッチウイスキーへの情熱が伝わってきます。密造酒と知りながら飲んだ、ジョージ四世は素晴らしい。

スコッチ・ウイスキーの歴史の中では税に触れる事が多いです。我々が持っている蒸留に関連する記録で一番古いのは1494年のものです。当時の納税記録に入っていました。
つまり、スコッチの歴史の中にスコッチに対する課税の歴史が含んでいるわけです。
1823年では非常に混乱な状態になっていました。スコットランドではおよそ1万4千の不法な醸造所が運営していたと思われています。
組織性が非常に高くなりました。しかも残忍でした。 人が殺されたり打ちのめされたりしており深刻な問題になりました。
治安判事の役割を果たしていた地主階級は密輸業者にわずかな罰金しか科していませんでした。
なぜかと言うと、例えばその密輸業者が治安判事の借地人だった場合、密輸から得た収入で地代が遅れずに払える、またはより高い地代が払えました。
つまり、自分の利害を守る為に地主階級は密輸に対して見て見ぬふりをしていました。
1822年にジョージ四世がエディンバラに訪問しました。世によく知られたこの訪問は当時のマスコミによってよく記録されました。 その際ジョージ四世は不法に作られた事を知っていながらグレンリベットウイスキーを頼みました。
当時グレンリベット・ウイスキーは一番質の高いウイスキーだと思われていました。ジョージ四世がこれを頼んだ事により当時の政府は面目を大きく失いました。
そこで、グレンリベット地方の土地を全部持っていたグロートン公爵を議長として王立委員会が確立されました。 そして、これこよって1823年に免許料を減らす法律が導入されました。
これに対応して密輸に対する罰金は増やされました。
従って、今まで副業として蒸留していた農民にとって本格的に蒸留した方がいいという状況になりました。1823年に導入された法律はスコッチの歴史の中で画期的なものだった訳です。
そして現在のスコッチ業界はこれにより生まれました。この様にスコッチはスコットランドの歴史と密接な関係がありスコットランド人の精紳の一部です。

注 意 : この内容の無断使用は出来ません。

#スコットランド蒸留所、風景

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