MENU

神谷傳兵衛(27) ネプチューン・ウイスキー。

昭和20(1945)年
8月15日、終戦。

合同酒精旭川工場旭川税務署に対し、9月13日付で合成清酒、焼酎、甘味葡萄酒、ウイスキー(乙種40%、1,000石。1石は180.39 リットル)、9月17日付でアルコール(89%)の酒類製造免許申請を提出した。
また同社東京支店渋谷税務署に対し、合成清酒、ウイスキー(乙類40%、500石)の免許申請を提出し、翌年1月14日付で製造免許を取得している。(乙種、乙類の表現は「合同酒精社史」の原文のまま)

東京支店および工場の所在地は、渋谷区代々木大山町(小田急線「東北沢駅」前)。
後に東京支店は銀座へ、東京工場は昭和26年に渋谷区幡ヶ谷本町3丁目555番地(現在の渋谷区本町)へ移転。
昭和31年4月末、菊美酒造(焼酎、合成清酒、添加アルコール、その他洋酒の中堅メーカー)との合併により東京工場は閉鎖。
東京都渋谷区にも、かつてウイスキー工場が存在したのである。

「合同酒精社史」が戦後のウイスキーについて語るのは合同酒精の上記の内容だけで、銘柄や意匠などの詳細は不明。
また合併前の神谷酒造のウイスキーの存在については言及していない。

昭和35(1960)年
10月1日、神谷酒造と合併洋酒工場とする。

昭和36(1961)年
12月1日、太陽醸造(東京都港区西芝浦4丁目3番地)を合併、芝浦工場とする。

太陽醸造は焼酎酒造組合の会員であり、その権利基本数量は焼酎722キロリットル、添加用アルコール57.3キロリットルであった。
さらに洋酒としてはネプチューンのマークのもとにラムが有名で、ジン、ウォッカ、マラスキーノ、スロージンなども製造していた。特にラムは全国需要の凡そ7割を占有するにいたった。

昭和38(1963)年
6月1日、本店の所在地を旭川から東京に移転。
10月12日、新東京工場(千葉県松戸市上本郷)が竣工。

本社が東京に進出し、吾妻橋の旧神谷工場、向島の旧菊美工場、芝浦の旧太陽工場の三部門が新東京工場に集約され、合同酒精は北海道の焼酎・酒精会社から全国区の総合酒造会社に脱皮した。



「合同酒精社史」(昭和45年刊)の製品一覧表には、
ネプチューン・ウイスキー・オーナーズマーク(特級)
ネプチューン・ウイスキー(特級)
ネプチューン・ウイスキー(1級)
ネプチューン・ウイスキー・ファイブ
ネプチューン・ウイスキー・丸びん
コルト・ウイスキー・エクストラ
の6銘柄が掲載されている。

YouTubeでネプチューン・ブラックのCM(昭和46年)を見ることが出来る。

「痛快!地ウイスキー宣言」合同酒精の項には、
副題として、
自社モルトとスコッチの名門マッキンレー社のモルトをブレンドした豊醇なウイスキー」
説明文には、
「昭和44年には、スコッチウイスキーの名品と謳われる英国マッキンレー社と技術および販売に関する業務を提携、本格ウイスキーの生産、輸入販売を開始した」
とある。
一時期、モルトウイスキーを自社製造したらしい。

昭和60(1985)年発行の「名酒グラフィティ THE WHISKY」には、
ネプチューン・ウイスキー・丸びん(2級、1,800ミリリットル)
が載るのみで、他の銘柄は終売になったと想像される。

平成15(2003)年
7月、合同酒精オエノンホールディングスに商号変更し持株会社体制に移行、事業会社として新合同酒精を設立。

ネプチューンブランドは、製菓用洋酒にその名を残している。

【参考図書】
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行、非売品)
■ 痛快!地ウイスキー宣言 (穂積忠彦編著。昭和58年9月30日発行、白夜書房刊)
■ 名酒グラフィティ THE WHISKY (バッカスコレクターズ編。昭和60年2月25日発行、新潮文庫)

#神谷酒造・合同酒精

この記事を書いた人