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神谷傳兵衛(23) 神谷酒造と関東大震災。

さて第2部。
神谷傳兵衛亡きあとの神谷酒造合同酒精の設立、その両社が合併するまでの話である。

大正11(1922)年 (傳兵衛66歳)
4月24日、神谷傳兵衛逝去。
養嗣子傳蔵(52歳)が二代目傳兵衛を継ぐ。

当時、神谷の事業体制は次のとおりであった。
花川戸工場シャトー・カミヤ = 株式会社神谷傳兵衛本店(*) (ワインの製造)
本所工場旭川工場 = 神谷酒造株式会社(**) (アルコール類の製造)
(*)大正11年7月17日、改称。
(**)大正9年2月14日、合資会社から株式会社へ。

大正12(1923)年
9月1日、関東大震災で花川戸工場本所工場が罹災。



罹災した浅草仲見世、正面が浅草寺。
右手の手前辺りが花川戸工場

「合同酒精社史」より、
浅草区花川戸町の神谷傳兵衛本店の5階建の建物と裏の葡萄酒工場、住宅、そして隅田川を隔てた神谷酒造本所工場が罹災した。
花川戸における神谷の店と工場は、神谷一族のまったくの個人企業であり、蜂印香竄葡萄酒の製造販売、神谷バーの営業、牛久葡萄園(シャトー・カミヤ)の事業経営等一切を行なうのを目的に、株主はすべて神谷家の一族といった構成であった。
初代神谷傳兵衛死去のあとは、養嗣子傳蔵二代神谷傳兵衛として、神谷傳兵衛本店をはじめ、神谷酒造の社長となっていた。
その新社長が就任後1年あまりに、この大災害にあったのである。

罹災後、花川戸の葡萄酒工場は市の条例で工場用地として認められず、葡萄酒工場は、川向こうの本所工場へと併合された。川一つの引越というには、神谷家の人々にとっては簡単に割切れない心情であった。一族の大部分は、葡萄酒は神谷一族の家業であり、酒精や焼酎は会社のものというべき気持ちだったからである。

花川戸工場から本所工場は、直線距離にして東に500m余。
神谷バーから吾妻橋を渡り、浅草通りを進み、吾妻橋交番前の交差点を左(北)に曲がった右手に本所工場はあった。
たかが500m余だが、神谷一族には発祥の地・花川戸を離れるのは辛かったであろう。

神谷酒造としては甚大な被害を蒙ったから、この再建に当り、速やかに手持土地財産等を処分し損害の補填をはからねばならない。
債務弁済のため、本所工場の敷地と残存建物、および拡張予定をかねて買い求めていた兵庫県西宮市今津の工場用地売却を決議したのである。
新聞広告で買取希望者をもとめたが、申込者の価格は、予定価格と大きな相違があったので、総体で本社バランス面の価格と一致した金額で、二代神谷傳兵衛に譲渡した。
すなわち、本所工場に属する資産及び負債は、神谷傳兵衛本店が引き受けたのである。

昭和15(1940)年
6月、神谷傳兵衛本店から、再び神谷酒造と改称。

【参考図書】
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行)

#神谷酒造・合同酒精

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