明治16(1883)年 (傳兵衛27歳)
琉球産泡盛酒を発売。
「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、一部を引用)
(速成ブランデーの製造に際し)傳兵衛は廉価な輸入アルコールの品質の分析試験を念入りに試みてみた。ところが少しも有害物を含んでいないのである。適当な薬用的飲み物であることの自信を深めた。彼は、安心してアルコールそのものを販売してみた。しかしアルコールはまだその用途が世に知られていなかったためか、需要者はきわめて少なかった。
このうえは、琉球産の泡盛酒を売ったほうがよいと考え、明治16年には麹町区富士見町の尚(しょう)侯爵邸から泡盛を払い下げ、また翌明治17年には琉球人の百名(ひゃくな)なるものと特約し、松竹梅印の泡盛を仕入れて卸売を行なった。ところが、その後明治19年にいたると、大阪から同じ松竹梅印の泡盛が東京に輸送されて、市中いたる所で売り広められるようになった。それは価格がきわめて安かったので、傳兵衛が扱った同じ泡盛は、たち打ちできるものではなかった。彼は早速、百名に対して「なぜ大阪商人には安価で売るのか」と照会してみた。百名からは「決して、そのような安売りはしていない」という回答であった。
傳兵衛は、大阪から輸送して来た泡盛を分析試験してみた。すると以外にもアルコールを添加混合しているではないか。傳兵衛は、試みに輸入アルコールを清酒にも焼酎にも添加混合してみた。すると、結果はいずれも好成績であった。これは大きな発見であった。
傳兵衛は、廉価な輸入アルコールが近いうちに清酒や焼酎にも添加混合され、大いに販売される時が来るに違いない。そうなるとどのような影響が出てくるのであろうか、と考えをめぐらしてみた。つきつめていくと、最後につきあたる問題は国の財政上への影響であった。
当時の酒類造石税は3区分に分かれていて、1石(180.39 リットル)当たりの税額は、
■ 第1類 4円 (清酒、にごり酒、その他の醸造酒)
■ 第2類 5円 (焼酎、アルコール、再溜アルコール、その他の蒸溜酒)
■ 第3類 6円 (銘酒、味りん、白酒等の再製品)
これに対して輸入アルコールは、海関税則が慶応年間に結んだ不平等条約のままだったので、1石当たりわずかに1円14銭程度。
当時の国全体の租税収入は、
■ 第1位 地税 75 %
■ 第2位 酒税 5 %
■ 第3位 輸出入税 3 %
「合同酒精社史」より、一部引用。
課税後の酒類に(安くて品質のよい)輸入酒精(アルコール)が添加され、増量されて市販されるならば、国家財政に少なからぬ影響を与えることになる、と神谷は判断した。
たとえば焼酎に度数の高い酒精の添加が行なわれれば、1石につき5円の税額はずっと割安になり、国の税源に損失を招くことは明らかなのに、政府も議会も顧みようとはしなかったのである。
明治23(1890)年、神谷は他の同業者とともに首唱者となり、関東酒造組合1府19県の大会を両国に開き、次いで関西に2府20県酒造組合連合会が組織されたので、ふたたび上野公園桜雲台に大会を開き、酒造税則改正運動を行なうことを決議する。
つづいて翌24年春、名古屋の県会議事堂で、全国酒造組合連合大会が開かれたので、神谷は組合員の荒木、天野両人とともに出席し、荒木に次のような意見を述べさせた。
「さいきん、外国から輸入する酒精は、用途多く最も便利な品である。この輸入が多量になれば、わが国の税源を傷つけ、国家の財政上に多大な損失を招くことになるから、この輸入に対しては適当な制限を加える必要がある」
ところが、関西の一酒造家は次のように反対した。
「酒精は酒にあらず、薬品である。酒精を飲んで煙草をのめば、腹中に火事を起す。かような劇薬は、酒の製造になんらの関係もないから、別に制裁を加える必要はない」
こんなありさまだから、結局、神谷の意見は大会の決議を得るにいたらなかった。
そこで神谷は、この大会の委員として改めて委員会の席上で、清酒と酒精の混成酒を実験して試飲させた。
一同は、はじめて眠りから覚めたように諒解し、遂に大会の決議をもって大蔵省に陳情書、貴衆両院に請願書を提出するにいたった。
しかし、大蔵省はこの陳情を容れず、貴衆両院は請願の採択を拒否し酒造税則改正は成らなかった。
酒税改正運動は頓挫したが、傳兵衛は国産アルコール製造の必要性を切実に感じたに違いない。
これがのちに、酒精工場建設につながって行く。
【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行)
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