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神谷傳兵衛(11) 「蜂印香竄葡萄酒」の商標登録。

明治14(1881)年 (傳兵衛25歳)
傳兵衛「香竄葡萄酒」を発売。

明治17(1884)年 (28歳)
10月1日、商標条例が施行。

明治18(1885)年 (29歳)
6月27日、「蜂印」を商標登録(第386号)。



農商務省の登録証第386号。
神谷傳兵衛の肩書きには「平民」とある。

明治19(1886)年 (30歳)
3月19日、「香竄(こうざん)印」を商標登録(第1,079号)。

さらに、後に「蜂印香竄葡萄酒」というフルネームが登録された。
これは××印香竄葡萄酒という模造品が横行したためである。

「合同酒精社史」より、一部引用。
蜂印というマークが、第1回の発売からついていたかは不明(関東大震災で神谷における記録が失われた)だが、蜂印の由来は次のように伝えられている。
神谷は明治6(1873)年から、3年間横浜のフレッレ商会にいたが、同商会が輸入していた洋酒のなかにフランス・ボルドー産の「ビーハイブ・ブランデー」があった。ビーハイブ(beehive)とは蜜蜂の巣(巣箱)だが、蜂印ブランデーと呼ばれていた。神谷は独立後の新製品に、その頃の記念として蜂印を選んだのである。さらに明治20年以降ビーハイブ・ブランデーの製造元が横浜に商社(現アデ・モース商会*)を設立してからはここを通じてブドー酒の原酒を輸入した。

(*) 詳細は不詳。

「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、一部を引用)
傳兵衛は、海外の博覧会等に進んで出品し、品質優良ということでいくつかの賞牌等の受賞にも預かった。同時に盛んに新聞にも広告を掲載し、看板引札を配布して一意販路の拡張に努めた。その様子を当時の「内外商業新聞」は、つぎのように報じている。
蜂印葡萄酒、海外でも評価される。(明治23年4月15日 内外商業)
日本橋区本町3丁目洋酒問屋近藤利兵衛氏が売捌元なる香竄葡萄酒は、去る21年スペイン万国博覧会にて銅賞牌、同22年フランス万国博覧会にて金賞牌を得たるほどでありて、その質純良にして評判高き由なるが、近頃類似品多く出来たれば、よくよく蜂絵の商標に注意せざれば、買い誤るの恐れありとなり。



当時の新聞広告。

このようにして、傳兵衛製造の「蜂印香竄葡萄酒」は、明治33、4年ごろには全国の洋酒店頭に出回り、ぶどう酒といえば直ちに蜂印を連想するまでにいたった。
明治26(1893)年1月6日付の都新聞には、「葡萄酒の商標争い」と題して、一文が掲載されている。

神谷氏より、「蜻蛉(とんぼ)香竄葡萄酒」の市川氏に対し、同商標無効の訴えを起したる結果は、蜂印滋養香竄葡萄酒神谷氏の勝利に帰し、同時に加藤氏の「香竄葡萄酒」の商標も無効に帰したり。
これによると、市川、加藤の製造したぶどう酒に、いずれも「香竄」の二字が冠してある。もはや日本製のぶどう酒は、「香竄」の二字がないとぶどう酒ではないといった印象すら受ける。いずれにしても傳兵衛が苦心して製造したぶどう酒は、開始してからわずか数年で、国内はもとより海外にまで知られる製品になったのである。まさしく、傳兵衛のぶどう酒は大成功であった。

「合同酒精社史」より。
蜂印香竄葡萄酒は一世を風びし、日本における葡萄酒の代表ともいうべき声価を得たが、大正11(1922)年全国に懸賞募集してラベルも一新し、蜂印香竄葡萄酒から BEE BRAND “KOZON WINE” となり、つぎに昭和へ進んで蜂ブドー酒、さらに戦後当用漢字制限もあって昭和33(1958)年からハチブドー酒というように、その時代感覚に応じ、しだいに変ったのである。

【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行)

#神谷酒造・合同酒精

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