明治8(1875)年 (傳兵衛19歳)
東京深川区六間掘町米穀商広瀬屋に入り、のち麻布区一本松町酒店天野鉄次郎方に勤めをかえる。
傳兵衛は酒店で働きながら、洋酒の製造という夢の実現のために資金を貯める。
「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、一部を引用)
横浜港にフレッレ商会の経営主を見送った傳兵衛(幼名松太郎)は、その足で上京し、一時東京深川区六間掘町米穀商広瀬屋に身を託した。そしてまもなく、麻布区一本松町の酒店天野鉄次郎方に落ち着いた。それは広瀬屋が天野と親類関係で、誠実な傳兵衛の希望をかなえてくれたからである。
同家での仕事は醸造が主であったが、かたわら販売も行なった。その仕事は、にごり酒が入った荷おけをかついで売り歩くのである。にごり酒は、一升4銭のものを6銭で売ったから、1升で2銭のもうけであった。傳兵衛は、このような利益金を毎日主人に預けて蓄えた。
このころ、芝白金今里町には当時外務卿の寺島宗則が、高輪南町にはもと元老院議官の後藤象二郎が住んでいた。傳兵衛は、はじめ寺島家に出入りして酒を売っていたが、ある日後藤家の裏門を荷おけをかついで入ろうとしたところ、肥おけとまちがえられて、門番にひどく詰責されていた。そこにちょうど後藤象二郎が現れ、
「お前は何を売るものか」
と問うたので、傳兵衛は丁重に、
「私はにごり酒を売るものです」
と答えた。後藤は、傳兵衛の態度を一目見るなり、
「よろしい。おれが一升買ってやる」
と即座に買い求めてくれた。
その翌日、傳兵衛は例によって寺島家に行き、続いて後藤家を訪れた。
「お前のにごり酒はうまいから、毎日持って来い、と主人の言い付けである」
昨日とは打って変わった門番からの注文であった。それ以来、寺島・後藤両家だけでも、毎日にごり酒が一斗ずつ売れるようになった。
このように酒が売れるようになると、傳兵衛はその運搬方法について考えてみた。酒おけをかつぎ歩くのは重いばかりでなく、敏しょうに活動ができない。これを何とかできないものか、と思案した。あれこれ考えた末、大きな樽を横にして車に乗せ、その樽に穴をあけ栓(せん)をしてみる着想がうかんだ。この装置ならば、必要なだけその栓を抜いて酒を注ぎ出すことができる。傳兵衛は早速これを造り、車を引き歩いた。その後東京ではみな、この装置の酒だる車をまねて造るようになったという。
このようにして傳兵衛は、天野家のためにも懸命に働いたが、24歳になった折が潮時と思い独立の生活を決心した。主人にその旨を述べ暇を請うたが主人は、
「まだ早い。今少し様子を見ろ」
ととどめた。しかし傳兵衛は一度決心したことであるからと、その年の末、すなわち明治12年末に暇をもらい、同家を辞した。したがって酒商天野鉄次郎方での奉公年数は、5ヶ年となる。
【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
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