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オーシャンの系譜(8) 大黒葡萄酒 東京工場。

宮崎光太郎(以下、敬称略)が創業した甲斐産商店は、東京へ進出、大黒葡萄酒と改組して事業を拡大する。
後継者の二代目宮崎光太郎は、戦後、本格ウイスキーに参入し、オーシャンサントリーニッカと並ぶ国産三大ウイスキーへと育て上げた。

大正2(1913)年
松本良朝(2歳)が宮崎家の養子となり、ニ代目宮崎光太郎
父は松本三良(さぶろう)、母は初代宮崎光太郎の娘なか

すなわち二代目光太郎は、創業者である初代宮崎光太郎の孫にあたる。

これから二人の宮崎光太郎を、初代二代目と呼び分けることにする。

松本三良は、初代宮崎光太郎の後継者である。
甲斐産商店宮光園主。
また戦争中に設立されて、戦後にメルシャンワインを発売する日本連抽(のちの日清醸造)の初代社長を務めた人物であり、初代宮崎光太郎の右腕的存在であった。

大正8(1919)年
甲斐産商店、東京・下落合にぶどう酒工場(のちの東京工場)を新設。
それまで山梨県祝村で瓶詰して出荷していたのを、樽で東京に運び、ぶどう酒工場で瓶詰することにした。

大正11(1922)年頃から
「M.K印スィートホームウイスキー」、国産シャンペン酒「オーシャン」など製造、販売。
「オーシャン」ブランドが登場。

「M.K印」は、宮崎光太郎のイニシャルか。

昭和8(1933)年
二代目宮崎光太郎、国学院大学を卒業し、甲斐産商店に入社。

昭和2年の金融恐慌に始まり、4年の世界大恐慌とそれに続く時代を、わが国では昭和恐慌と呼んでいる。
この時期、甲斐産商店もまた経営不振を余儀なくされた。
そこで大黒天印の有力特約店であった大阪の吉川伊作商店、また、アルコールの供給を行っていた宝酒造などが協議した結果、甲斐産商店を資本金32万円の大黒葡萄酒株式会社に改組の上再発足させることになった。

昭和9(1934)年
大黒葡萄酒に改組(株式会社化)。

「光栄之純国産 大黒葡萄酒に就いて」
 (大黒葡萄酒株式会社発行。昭和9年11月18日初版、昭和11年8月25日改訂再版。非売品)

商品カタログで、大黒ブランデー、セリー酒(シェリー酒)はあるが、残念だがウイスキーは載っていない。



奥付には、
本   社 東京市淀橋区下落合一丁目10番地
関西営業所 京都市伏見区竹中町609番地
醸 造 場 山梨県八代郡祝村(葡陵萄源郷
と印刷されている。

宮光園の一角にも「葡陵萄源郷」の碑が。



調べてみたら、桃源郷(中国の理想郷)の別称が、「源」。
宮崎はこれを文字って、「源」としたらしい。
「葡萄の理想郷」の意だろうか。

話を続ける。
宝酒造の常務取締役大宮庫吉が専務として参加し、積極的な経営を展開するに及んで次第に業績を回復していった。
当時の最大の市場は甘味ぶどう酒であり、ここには赤玉両印が圧倒的なシェアを占めていたから、いかに大黒印といえども容易にはシェア拡大はできないだろう、といのが販売店など大方の予想であった。
そこで大黒は、蜂、赤玉の小びん(550ml)に対して、家庭用で経済的な1升(1.8L)びんを発売し、これに宣伝の主力をそそいだ。その結果は非常に順調で業績も伸張し、塩尻工場、白河工場を建設、軽井沢にぶどう園を購入するなど、数年を出ずして一大飛躍を遂げたのである。

昭和13(1938)年
長野県に塩尻工場を新設。

昭和14(1939)年
福島県に白河工場を建設。
軽井沢にぶどう園を購入、大黒農産として経営。

のちの「軽井沢蒸溜所」である。

昭和20(1945)年
8月15日
終戦。

昭和21(1946)年
東京工場内に蒸溜酒工場を新設。
「オーシャン・ウイスキー」を発売。

戦後はまず戦災で全焼した東京工場を再建し、ここに蒸溜機を据付けてアルコールの生産を開始した。
戦後は占領軍の駐留などもあってウイスキーの需要が一段と増加したため、大黒葡萄酒も甘味ぶどう酒に加えて、ウイスキー部門にも力を入れることになった。

昭和22(1947)年
初代宮崎光太郎(文久3年~)、逝去(85歳)。
二代目光太郎、取締役に就任。
白河工場を宝酒造に売却。

占領軍の主導による一連の経済改革と独占禁止法の実施によって、大黒葡萄酒宝酒造の経営系列を離れて完全独立することになった。この独立に際して白河工場宝酒造に売却し、大黒農産を合併した。
この22年に初代宮崎光太郎は85歳でその生涯を終え、二代目光太郎が後継者となった。

昭和25(1950)年
二代目宮崎光太郎、常務取締役を経て取締役社長に就任。

大黒葡萄酒(オーシャン)の実質的な経営は、初代宮崎光太郎松本三良(娘婿) → 二代目宮崎光太郎(孫)に引継がれたと想像できる。
ただし松本三良が社長に就任したかは、定かでない。

洋酒に対する公定価格が廃止され(昭和24年)、実際にウイスキーに自由販売がみとめられたのは、昭和25年のことである。
以降、ウイスキー原酒の含まれる比率の低い3級ウイスキー(5%未満~0%)を中心に自由競争時代へと突入して行った。

昭和27(1952)年
塩尻工場で原酒(モルトウイスキー)の製造開始。

やがて昭和27年からは塩尻工場で自らウイスキー原酒の製造を開始した。
また、30年には軽井沢工場を建設し、翌31年から塩尻工場でのウイスキー原酒の製造を移し、ここで本格的にウイスキー原酒の製造をはじめた。

昭和29(1954)年
「オーシャン・ウイスキー」(本格ウイスキー)を発売。

昭和30(1955)年
軽井沢工場(蒸溜所)を建設。

中小の生産者の撤退を経て、サントリー、オーシャン、ニッカが大きなシェアを占めるに至り、昭和30年代以降の高度経済成長時代には、3社の名を冠したバーが街場に急増、ウイスキーは大ブームとなった。
激しいシェア争いが続き、「ウイスキー戦争」なる言葉も生れている。

昭和31(1956)年
塩尻工場から軽井沢工場へ、原酒の製造を移管。

昭和36(1961)年
4月1日
オーシャンに社名変更。

オーシャンでは軽井沢工場でモルトウイスキーの製造を行い、東京工場および磐田工場でブレンド、瓶詰して出荷するという体制がとられていた。
ただし、瓶詰工程の中心は東京工場という分業関係にあった。



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昭和37(1962)年
3月30日
二代目宮崎光太郎三楽酒造の取締役に就任。
7月1日
三楽酒造に吸収合併され、三楽オーシャンに社名変更。
7月2日
二代目宮崎光太郎三楽オーシャンの代表取締役副社長に就任。

昭和40(1965)年
東京工場の機能を藤沢工場へ移転することが決定。

合併後の基本方針としては、瓶詰工程は基本的に東京工場(旧オーシャン)に集中し、遠隔地である八代(旧三楽)、補助的に川崎(旧三楽)で行う方針であった。
ところが東京都の都市計画による道路建設が東京工場の敷地を二分することになり、工場としての機能が失われることになった。
そこで東京工場の機能を全面的に藤沢工場に移転することとし、あわせて藤沢工場を洋酒の専用工場とすることにした。

昭和41(1966)年
4月
移転完了。
6月24日
東京工場廃止。
47年の歴史に幕を閉じた。

昭和44(1969)年
1月22日
二代目宮崎光太郎、代表取締役副社長を辞任し相談役に就任。
58歳であった。

昭和49(1974)年
9月3日
宮光園第二醸造所、メルシャン「ワイン資料館」として開設。

昭和58(1983)年
日本のウイスキー消費量が最高を記録(37万7,000キロリットル)し、以降、減少に転ずる。

昭和60(1985)年
三楽に社名変更。

平成2(1990)年
メルシャンに社名変更。

平成17(2005)年
10月21日
二代目宮崎光太郎、逝去(94歳)。

創業の地宮光園(第一醸造所)は、のちに初代宮崎光太郎の娘婿である松本家の所有となった。
二代目宮崎光太郎の死の翌年、宮光園の土地(約7,500㎡)と建物(主屋、ワイン蔵等)、付属する資料全般は、松本家からメルシャンではなく、甲州市へ寄贈された。

【参考図書】
■ 三楽50年史 (三楽株式会社社史編纂室、昭和61年5月発行)
■ ウイスキーコニサー資格認定試験教本2007 (スコッチ文化研究所編)
■ 甲州市HP

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