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竹鶴政孝を歩く(1) 芝川又四郎と帝塚山の洋館。

竹鶴政孝(以下、敬称略)は大阪と縁が深い。

大正5(1916)年3月、大阪高等工業学校(現大阪大学)醸造科を卒業、摂津酒造に入社。
大正7(1918)年6月、ウイスキー留学のため神戸港からスコットランドへ出発。
大正9(1920)年11月、竹鶴政孝・リタ夫妻は、摂津酒造の阿部喜兵衛社長(欧州視察)とともに、横浜港に帰国。大阪・帝塚山に居を構える。

「ヒゲのウヰスキー誕生す」(川又一英著、新潮社)より(字)、
大阪の住吉では、竹鶴夫妻のために姫松(現帝塚山)に一軒の家が用意されていた。阿部社長が船中から電報を打って借り上げさせておいたものだった。
阿部夫人タキは、リタのために寝台を運び入れ、様式便所を取り付けさせていた。
借家は家賃が月55円だった。決して安くはないが、帰国後の摂津酒造では技師長待遇を受けて月給150円ほどが支給されたから、生活には困らない。

摂津酒造のウイスキー事業計画は第一次世界大戦後の不況下、頓挫する。
大正11(1922)年の春、政孝は摂津酒造を辞す。桃山中学(現桃山学園)で教鞭をとる。

大阪の阿倍野に英国伝道協会によって創設された桃山中学があった。摂津酒造を退社して浪人生活を送っていた竹鶴は、妻リタが校長ローリングの夫人と親しくなっていたところから、この中学で化学を教えることになった。
リタ自身も帝塚山学院で教えるかたわら、英語とピアノの個人教授をして家計を助けている。
浮き草のような浪人生活ではあったが、姫松の家は、ピアノを習いにくる明るい声に満ちていた。リタも子供たちに負けず、朗らかな声を上げた。

大正12(1923)年6月、政孝は鳥井信治郎に乞われて壽屋に入社し、山崎蒸溜所の建設に従事する。

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政孝・リタ夫妻が住んだ姫松にあった洋館の貸主は、芝川又四郎だった。



芝川又四郎は、政孝およびニッカウヰスキーにとって大変に重要な人物である。
芝川家の沿革を紹介する。

天保8(1837)年  又四郎の曽祖父・芝川新助、唐物商(欧米品の輸入業)を興し、繁盛する。
祖父・芝川又右衛門(初代、隠居後は又平)、リスクの高い唐物商を廃業。
大阪の千歳(15万坪。明治12年)、加賀屋(20.4万坪。明治13年)、千島(18.6万坪。明治19年)の3新田を購入し、土地経営に転ずる。
明治16(1883)年  又四郎、大阪伏見町で2代目又右衛門の次男として誕生。
明治45(1912)年  千島土地株式会社(資本金15万円)に改組。
大正12(1923)年  又四郎、家督を継ぐ。この前後、満州、青島、上海、アメリカを旅行し、建築と土地を視察。
昭和2(1927)年  7月1日、芝川ビル竣工。
昭和9(1934)年  大日本果汁(のちのニッカウヰスキー)設立。
昭和45(1970)年  又四郎逝去。

千島土地は土地を寄付したり(大阪市へ市電の軌道用地や道路用地、阪堺電車へ軌道用地、帝塚山学園用地など)、譲渡したり(関西学院大学用地)していて、当時から手広く不動産事業を展開していた。
現在、航空機のリース業なども行っている。

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それでは、新婚の政孝・リタ夫妻が住んだ姫松(帝塚山)、政孝が教鞭をとった桃山学院、ニッカウヰスキーの設立に深く係わった伏見町の芝川ビルを散策する。

(是非、地図サイトを参照しながら、お読みください)

「天王寺駅前駅」から阪堺電気軌道上町線に乗車する。
明治33(1900)年には上住吉駅(現神ノ木駅。南海電鉄高野線と交差)まで開通していたので、正孝・リタ夫妻も利用していたはずだ。



ちんちん電車は、阿倍野筋の路面をしばらく走行。



「松虫駅」手前で阿倍野筋から分かれて、専用軌道を走行。



その後、「北畠駅」手前で、(阿倍野筋ではない)一般道へ戻り、路面を走行。
「姫松駅」で下車する。
天王寺駅前から2.7km、乗車時間9分、200円である。

写真は、姫松駅から天王寺方向を望む。
左手が帝塚山である。



姫松駅の駅舎。
バスの停留所と呼ぶほうが相応しい。



下の写真は阿倍野区帝塚山1丁目(左手)と住吉区帝塚山中1丁目の堺を走る南港通
周辺は、瀟洒な戸建住宅と低層マンションが並ぶ。

姫松(帝塚山)の竹鶴政孝邸は、当時は珍しい洋館だったようだ。
近くに(隣りだったともいう)芝川又四郎の邸宅があり、リタ夫人は芝川の子女に英語とピアノを教授した。
当時を偲ぶ建物は、いまこの地にない。




摂津酒造について、若干考察する。

「ヒゲのウヰスキー誕生す」より、
南海鉄道高野線に面して、板塀に囲まれた壮大な敷地があった。塀越しに眺めると、白壁に瓦を葺いた二階建てが一基の塔を取り囲むように連なっている。大阪・住吉の静かな住宅街にあって、敷地中央の奇妙な塔が人目を惹いた。
大正5年(1916)3月。その塔を見上げながらひとりの青年が正門の脇に佇んでいた。
――ここか。あれが蒸溜塔だな……。
青年はしばらく躊躇していたが、やがて意を決したように【摂津酒精醸造所】と表札の掛かった門をくぐった。

この青年は、今でいう「就活」で摂津酒造を訪ねた。
若き日の竹鶴政孝である。

摂津酒造の住所は
「大阪市住吉区住吉町1063」(旧住所表記)。
大阪在の図書館で調べればすぐに分かると思うが、私には現在の所在は分からない。
摂津酒造は、
・昭和39(1964)年10月、宝酒造に合併され、宝酒造大阪工場。
・昭和48(1973)年3月、工場廃止。

その後、「跡地は市営住宅になったようだ」という話があるので、高野線「東住吉駅」東側の市営住宅地と根拠もなく推測しているが、当っているだろうか。(要確認)

ちんちん電車の姫松駅から、摂津酒造があったと推測した神ノ木駅まで3駅、凡そ1キロメートル余。
若い竹鶴政孝は、晴れた日はちんちん電車に乗らず、軽快に歩いて通勤した、と想像すると楽しい!

【コース】 天王寺駅前駅 → (阪堺電気軌道上町線) → 姫松(帝塚山)

   竹鶴政孝を歩く(1) 芝川又四郎と帝塚山の洋館。
   竹鶴政孝を歩く(2) 教鞭をとった桃山学院。
   竹鶴政孝を歩く(3) ニッカウヰスキー会社創立の地。

#ニッカウヰスキー

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