http://info.linkclub.or.jp/nl/2005_10/anata.html
ヒロシマからアメリカ、そして世界へ。
原爆投下から10年が経った1955年5月、
25人の若き日本女性が、アメリカへ旅立った。
彼女たちは、広島で被爆して顔や体にケロイドを負ったヒロシマ・メイデン(原爆乙女)。
この日から約1年半にわたってアメリカ東海岸に滞在し、
延べ133回の整形手術を受けて帰国した。
この治療を可能にしたキーパーソンが、2人いる。
広島・流川教会の谷本清牧師と、米国のジャーナリスト、ノーマン・カズンズ氏だ。
ともに強い信念をもち、終生、国境を超えて平和活動に尽くした人物だ。
ヒロシマ・メイデンのひとりだった山岡ミチコさんは、
被爆体験の貴重な語り部として活動している。
山岡さんのお話をうかがいながら、当時を振り返る。
2005年夏、ヒロシマで。
山岡ミチコさん
「私は多くの人が酷い亡くなり方をしたのを、この目で見ました。人類が同じ過ちを犯さないために、こうしてお話ししてるんですよ。平和を当たり前と思わないで欲しいんです。私が思うに、過去の戦争でどちらが悪かったと決めつけるとか、やられたらやり返すという考え方をするのはいけない。両方の国が手をつないで、核兵器のない世の中にしていくべきなんです。みなさんには自分の国に帰ってからも、このことを考えるようにお願いします」
米国ワシントンDC州から来日した高校生たちが、真剣に耳を傾けている。声の主は、被爆証言者の山岡ミチコさんだ。/P>
日本人にはもちろん、海外から広島を訪れる人々にも、被爆体験を語っている。米国の高校生には誤解を与えて気持ちを傷つけることのないよう気遣ってはいるが、それでも被爆の実情に大変なショックを受けたり、米国の政策は間違っていないと興奮したりする者もいるという。
山岡さんと米国との個人的な関わりは、ヒロシマ・メイデン(原爆乙女)のひとりとして渡米した1955年に遡る。
ヒロシマの代表として平和を訴える。
谷本清牧師
山岡さんは15歳で被爆して以来、母と2人、貧困と差別に苦しんだ。家もなくなり、医者にもかかれなかった。就職もままならず、許嫁とは破談になってしまった。山岡さんのように体と心に傷を負い、ひっそりと暮らしていた若い女性が、当時の広島にはたくさんいた。
そんな被爆者たちの精神的支柱となっていたのが、自らも家族も被爆した、流川教会の谷本清牧師(1909~1986年)である。「広島は人類初の原爆の被爆地という立場から、世界平和に永遠に貢献する使命がある」と考え、後に(財)ヒロシマ・ピース・センターを設立した人物だ。
谷本牧師は、1946年8月31日号の『ニューヨーカー』に掲載されたルポ、『ヒロシマ』の登場人物のひとりとなったことで、米国で一躍有名になる。全ページをひとつの記事にあてるという、前代未聞のこの号は、1日で約30万部が売れた。その後十数カ国で翻訳されて読み継がれ、学校教材としても使われている。著者のジョン・ハーシーはこの本の印税のほとんどを、広島復興のために寄付したそうだ。
この記事をきっかけに、谷本牧師は1948年9月、米国の教会に招かれて渡米する。15カ月間にわたって31州256都市で講演を行ない、広島の惨状と平和を訴えた。そうした活動を続ける中で、パール・バックやアインシュタイン博士など、核兵器の使用に異議を唱えるさまざまな人物と出会うことになる。
しかし戦後の6年8カ月間、占領軍によるメディア規制が敷かれていた日本国内では、原爆被害の実情も、谷本牧師の活動もよく知られていなかった。
ヒロシマ支援を米国市民に呼びかける。
ノーマン・カズンズ氏
谷本清牧師は、ケロイドを負った年頃の娘たちに心を痛めていた。被爆者の研究はするが診療は行なわないABCC(原爆障害調査委員会)に、被爆者たちは憤慨していた。
治療には莫大な費用がかかる。作家の真杉静江さんらの募金活動によって、国内で20人ほどの治療が行なわれたが、谷本牧師は米国で治療を受けさせてやれないかと考えた。その相談を受けたのが、NYの文芸誌『サタデー・レビュー』編集長、ノーマン・カズンズ氏(1915~1990年)である。
1949年に広島を訪れて原爆孤児の生活に衝撃を受けたカズンズ氏は、ルポ『4年後のヒロシマ』を発表して、米国市民に「精神養子運動」を呼びかけた。すぐに数百組の“親子”が生まれ、里親たちは養育費のほか、誕生日や祝い事にはカードを贈って孤児の成長を支えた。これに刺激を受けて、日本国内における精神養子運動も盛り上がった。
カズンズ氏は原爆投下の日、世界が全く新しい時代に入ってしまったことを感じたという。「真の平和を実現するには、世界市民の意識を高めて人類がひとつにならなければ」という思いを強め、世界連邦運動をはじめとする平和活動に尽くした。
カズンズ氏はヒロシマ・メイデン(原爆乙女)への義援金を募るため、谷本牧師をテレビ番組『This is Your Life』に出演させた。本人には予告なしで、思いがけない人に対面させる番組だ。
なんとそこで、谷本牧師とその家族は、原爆を投下したエノラ・ゲイの飛行士だったロバート・ルイス氏と対面したのである。
番組でルイス氏は「おお神よ、私たちは何ということをしたのか。そう思い、この言葉を飛行日誌に書きました」と涙をこぼした。谷本牧師の娘である近藤紘子さんは、「原爆を落とした人は悪い人と信じていた自分にとって、人生を変える経験だった」と著書の中で述懐している。紘子さん(当時10歳)は「この人も罪の意識に苛まれ、苦しんでいるんだ」と感じ、ルイス氏のそばに行きそっと手をつないだという。番組は大反響だった。手紙が殺到し、寄付金5万ドルが集まり、ヒロシマ・メイデンは米国民に深い印象を残した。米国では最近でも、彼女たちを題材としたドラマや舞台劇が作られている。
海を渡り治療を受ける。
ヒロシマ・メイデン
カズンズ氏は25人の原爆乙女を米国に招いたが、これをめぐる日本人の心情は複雑なものだった。「敵国だったアメリカで治療を行なうなんて」「なぜ若い娘ばかり扱うのか」という批判もあった。
渡米した時の思いを山岡さんはこう語る。
「“敵国に行ったら殺されるよ”と脅かす人もいましたが、私には“治せるなら、原爆を落とした国が治すのが当然”という気持ちがありました。米国のことは“こんちくしょう”と思ってましたよ」
そんな彼女たちを温かく迎えたのは、クエーカー教徒を中心としたボランティアの家庭だ。“ヒロシマ・メイデン(原爆乙女)”たちは1年半の間、一般市民の家庭にホームステイしながら、ニューヨークのマウント・サイナイ病院で治療を受けた。時には反日感情にさらされることもあった。
「“お前がこうなったのは真珠湾攻撃の報いだ”と言われたこともあります。でも英語がわからなかったから、ただにこにこしていた。それでよかったんだと思います」。山岡さんは、そう振り返る。
戦後10年。さまざまな感情が渦巻く中、言葉もわからない米国で大掛かりな手術を受けることが、容易でなかったことは想像できる。しかしおおらかで陽気な米国文化の中で、彼女たちは人々とふれあい、のびのびと外出したり、生まれて初めてダンスを体験したりした。その経験は、彼女たちを強くし、希望を与えた。当時を知る人はこう語る。
「彼女たちは不運な身の上にめげず、積極的で明るかった。その前向きな姿に、私たちアメリカ人は非常に感心しました。彼女たちを見て、日本に対する印象が変わった人も多かったんですよ」
原爆乙女の米国治療のニュースは、日本でも話題となった。彼女たちが帰国した翌57年、日本で原爆医療法が制定された。
生きて、語り続ける
山岡さんは、米国で27回の手術を経て、首を動かせるようになった。担当してくれた医師は、ドイツで医学を学んだユダヤ人だった。
「アメリカ人が“I”m sorry.”と言ってくれたことで、人を憎まず戦争を憎もうと思いました。戦争さえなければ、互いの国を憎むことはありません」。その気持ちを、語り部として伝えている。平和な世の中にしていくために何をすればいいかと聞かれると、「自分の国が何をしているか、よく考えること」「はっきり自分の考えを言えるようになること」と答えているそうだ。
世論調査(NHK調べ)によれば、日本では48%、米国では56%の人が、「今後、核戦争の可能性がある」と答えている。また、広島への原爆投下の是非については、米国では肯定派と否定派が半々だ。ひとりでも多くの人が広島を訪ね、あるいは被爆者の体験を聞くことで、その数字は少しずつ動くのではないだろうか。
「“聞いてよかった、また話して”と言ってもらうたびに、来年まで生きていなくちゃと思うの」と言う山岡さんの言葉が、耳に残った。
#平和