大学時代、ちょっとだけ山登りをしていた。取り付かれたように、季節を問わず山で過ごした時期もあった。広島から富山・長野まで出掛けては、北アルプスの山々を歩き回ったものである。43リッターのアタックザックは、汗と傷と思い出を詰め込んで、今も実家に置いてある。
富山は山屋(登山家などというかっこよさはなかった)にとって、避けて通れない聖地で、よく立ち寄った。山から下りると女よりも先に欲しくなる、野菜サラダと酒を求めてさまよい歩いたものだ。桜木町の外れに、小さな山屋のオヤジ(マスターとう雰囲気ではない)がやっているバーがあり、全国から山屋が集まるので、色々な情報も自動的に集約される。行きは情報収集のため、帰りは最新情報の更新のために、という名目で酒を飲みに寄った。
大学を出るのと同時に、山屋をやめてしまったので、富山に用事がなくなった。10年以上が過ぎた。たまたま仕事で富山で一泊することになり、そのバーを思い出して覗くことにした。昔ながらの看板が見えた瞬間、小躍りしてしまいそうになった。リュックと登山靴が、アタッシュケースと革靴に変わった自分は、入っていいものかどうか躊躇したが、勇気を奮ってドアを開けた。
ちょっと老けたオヤジが、昔のようにブスッと出迎えてくれた。その後、何も言わず奥へ消えた。カウンターに座ってしばらく待っていると、ピカピカのサントリーオールドのビンが、目の前に出現した。確かに大学時代にキープした酒である。ちゃんと大学名と、その時一緒に行ったメンバーの名前が白いマジックで書かれていた。中身はほとんど残っていなかったが。
昔から口数の少ないオヤジで、ワンポイントしかものを言わないが、的確なアドバイスをくれる人であった。「ロックでいい?」と返事も待たずに、ちょっとへこんだシェラカップに酒が満たされた。懐かしく楽しい数時間を過ごした。時々ボトルを磨きながら、山で落ちていないことを祈っていたという。だから、何年たっても山屋達の顔を覚えていられたそうだ。
数年前に、富山を訪れたときには、もう店はなかった。磨かれたボトルはどに登って行ったのか。
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