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神谷傳兵衛(22) カミヤの至宝。

起業家神谷傳兵衛は、まず技術者であり、糖蜜を原料とした酒精製造(明治28年)、小麦・燕麦麹を原料とした酒精製造(明治41年)、澱粉粕を原料とした無水酒精製造(明治43)、澱粉粕を原料とした焼酎製造など、酒造に関した特許を取得している。



神谷傳兵衛(60歳)(大正5年撮影)

「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、
傳兵衛が請われて企業設立に関与したことを挙げれば枚挙にいとまがない。ここでは、そのおもなるものを挙げるにとどめておきたい。
日本石油精製、神谷汽船、九州炭鉱汽船、旭製薬、富士革布、輸出食品、日新印刷、三河鉄道、日本製粉、日本建築紙工、神谷貿易、東洋遊園地、東洋耐火煉瓦、三屋粘土、東京鋲鎖製造、帝国火薬工業、北海道土地等々である。

上記会社の多くは傳兵衛が発起人となり取締役に就任し、なかには社長を務めた会社(三河鉄道、旭製薬、富士革布など)もあり、「請われて関与した」以上の事業家であったことは容易に想像される。

傳兵衛は、実業家以外の諸名士とも交際をもった。
明治の政治家、先覚者であった勝海舟との交流は、向島で近所に住んだ関係から絶えず相会し語り合った仲であった。
幕末、明治の剣豪で政治家であった山岡鉄舟との交際は、傳兵衛の剣道の師であったからである。鉄舟傳兵衛を殊のほか愛し、花川戸町で酒の一杯売をはじめたときから引立て役を行ない、傳兵衛の晩年まで親交を続けた。
明治23年当時枢密顧問官であった榎本武揚とは、向島に住んだときから知り合い、以降共に酌み合い、一夜を飲み明かしたことは一再ではなかったという。
もと元老院議官の後藤象二郎や外務卿のちの枢密顧問官であった寺島宗則との交際については前述のとおり
傳兵衛はまた、目黒の軍人で政治家であった西郷従道の別荘にもよく足を運んだらしい。尋ねるといつも庭にむしろを敷き、流れる滝を見ては語り合ったという。
傳兵衛出身地付近の旧領主徳川義礼は、その旧領地から傳兵衛のような人物が出たのを喜び、自ら「シャトーカミヤ」を訪れて傳兵衛と親しく接見した。
傳兵衛はこれらの諸名士と交わるに際しては、誠実そのもので少しも飾気をもたず、虚心坦懐、淡白であった。一旦交際をはじめれば永続して生涯交際を続けたのである。

傳兵衛が交際した署名人は枚挙にいとまがないので、上記で省略。
彼はまた、災害救済や慈善事業、教育や社会公益事業に多大な寄付を行なった。



傳兵衛の寄付行為の中で特に異彩を放つのは、晩年の大正8(1919)年自家の什宝668点(*)をそっくり帝国博物館(現在の東京国立博物館)へ献納したことである。
このような什宝をわが家に残すことは、子孫のために決してよいことではない。依頼心を起すもとである。またこれを売って若干の利を得ても、その金はたちまち消えてしまうに違いない。むしろ公的な博物館で役立てるべきである、と悟ったのである。

(*)中国清朝を中心とする美術骨董品。献納前は神谷バーを改装して私設の美術館を設け、展示していた。

大正9(1920)年 (傳兵衛64歳)
2月24日、神谷酒造合資会社(本所、旭川)を株式会社とする。
6月、神谷醸造株式会社(浅草花川戸、シャトーカミヤ)を株式会社神谷本店と改称する。

大正11(1922)年 (66歳)
4月24日、神谷傳兵衛逝去。
養嗣子傳蔵(52歳)が二代目傳兵衛を継ぐ。

【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
■ 特別展「カミヤの至宝」 (平成14年10月20日 合同酒精発行のカタログ)

#神谷酒造・合同酒精

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