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神谷傳兵衛(17) シャトー・カミヤ。

明治30(1897)年 (傳兵衛41歳)
1月12日、傳蔵ワイン醸造法を習得しフランスより帰国。
4月、東京府豊多摩郡東大久保村にフランス産ぶどう苗を植付。
10月、茨城県牛久の原野を買入れ、開墾に着手。

「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、
フランスボルドー原産のぶどう苗木6,000本を輸入し、試みにに東大久保村(のちの戸山ヶ原陸軍錬兵場)の原野に移植してみた。成績はきわめて良好であった。これに自信を得た傳兵衛は、ぶどう園設置をめぐってさらに適当な土地を物色した。
はじめ、出身地に近い静岡県方面を探し、三方ヶ原(浜松市)に目をつけたが、土地を調べてみるとそこはぶどう栽培には不適地であった。以降も八方を探し調査した結果、茨城県稲敷郡岡田村の原野、女化原(おなばけはら)が最適地であることがわかった。

「合同酒精社史」には、
八方調査のすえ茨城県稲敷郡牛久村字河原代を適地と認めた。

ふたつの資料の住所表記が違うのは、女化原河原代(茨城県龍ヶ崎市)の飛地100町歩(1町歩は9,917㎡)があったため。
傳兵衛は120町歩の土地(河原代の飛地100町歩を含む)を購入、現在の牛久市神谷地区である。

明治31(1898)年 (42歳)
神谷ぶどう園を開設。東大久保村に試作したフランス産ぶどう苗を移植。
併せて仮醸造場を建設。

傳兵衛が購入した年の前年、明治29年から開業した日本鉄道会社土浦線(常磐線)の牛久駅にも近く、将来有望な土地でもあった。彼は早速、23町歩を開墾し、「神谷ぶどう園」と名付け、東大久保村に試作しておいたぶどう苗6,000本を移植してみた。成育はきわめて良好であった。ここに傳兵衛は、牛久地区進出を改めて決意したのである。

明治33(1900)年 (44歳)
ぶどう酒12石(1石は約180リットル)を試験製造。

傳兵衛は23町歩のぶどう園を開設した明治31(1897)年(*)に仮醸造場を建設した。ここでは3年後に、「神谷ぶどう園」から採取したぶどうで赤、白ワイン第1号を誕生させた。
(*)明治31年は西暦1898年で、著者は混乱をきたしている。

明治34(1901)年 (45歳)
3月、醸造場建設に着手。



明治35年頃、建設中の本館。

建設にあたっては、フランスのボルドー地区ぶどう園の最新様式を取り入れ、傳蔵の経験からそれに改良を加えている。
このとき建てられた建物を挙げると、
・二階建て事務室および本館(209坪)
・地下室を持つ二階建て醗酵室(486坪)
・貯蔵庫(120坪)
・洗じょう場(45坪)
・びん置場(12坪)
・ボイラー室(8.7坪)
・地下室苗木場(44坪)
など。
そのほか技師・事務員・園丁の住宅、農舎、馬屋など16棟が設置され、私設測候所(ぶどう栽培のための気象観測用)も設けられた。
園内には、醸造場を中心に縦横にトロッコが敷設され、その一端は牛久駅まで伸び、総延長は6kmにも及んだ。

明治36(1903)年 (47歳)
9月、醸造場(シャトーカミヤ)竣工。
イギリス水晶宮で開催された万国衛生食料品博覧会に「牛久葡萄酒」を出品、名誉金牌を受賞。



明治38年頃のシャトー・カミヤ

全くフランス風の建物施設でシャトー・カミヤと命名された。シャトーとは原料樹栽培から瓶詰作業まで一貫して行なう本格醸造場にだけ許される呼称であった。

明治37(1904)年 (48歳)
フランス・パリ開催のチュイルク博覧会に「牛久葡萄酒」を出品、金賞牌を受賞。

明治39(1906)年 (50歳)
五二共進会に「牛久葡萄酒」を出品、名誉金牌を受賞。

明治40(1907)年 (51歳)
7月、東京勧業博覧会に「牛久葡萄酒」を出品、一等金賞牌を受賞。

最盛期における牛久葡萄園の敷地は160余町歩にわたり、栽培面積40町歩、葡萄樹13万本を数えた。その規模の大きいことは類例がなかったから、期せずして神谷のPR工場となった。



大正4年10月13日、トロッコに乗り
醸造場を視察する土方久元伯爵。

【参考図書】
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行、非売品)
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
■ 特別展「カミヤの至宝」 (平成14年10月20日 合同酒精発行のカタログ)

#神谷酒造・合同酒精

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