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神谷傳兵衛(9) 蜂印香竄葡萄酒。

明治14(1881)年 (傳兵衛25歳)
秋、輸入ぶどう酒を原料とした甘味ぶどう酒(のちの「蜂印香竄葡萄酒」)の製造、販売をはじめる。



「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、一部を引用)
傳兵衛が花川戸町ににごり酒の一杯屋を開店したころ、国内での洋酒の需要はかなり高くなっていた。なかでもぶどう酒は、輸入品中の最高位を占めた。このような状況を見て、傳兵衛は一刻も早くぶどう酒製造をわが手で起こしたいもの、と考えた。
しかし、それにはかなりの準備期間が必要であった。だが、にごり酒の一杯売は、開業してから1年ほどを経過した時点で、初期の目標以上に繁盛し、洋酒製造を起こす資本は十分に蓄積できていた。実態についての問題は、日本人の口に合うぶどう酒をどのように造るかであった。
当時の輸入ぶどう酒は味がにが渋く、日本人には適しないものであった。
そこで傳兵衛は、かねて横浜のフレッレ商会で学んだ洋酒製造法を基礎に、日本人の口に合う甘いぶどう酒の再製を考えた。まもなく花川戸町の自宅に製造場を設け、それに全力を傾けて独特のぶどう酒を造り出すことに成功した。売り出してみると、この神谷製ぶどう酒は口触りがよいので、たちまち評判になった。
そのころの傳兵衛は、盲じまの一重になわ帯を締め、昼夜醸造がまの前で温度を凝視し連日徹夜で、寝室にも入らなかったという。以降も傳兵衛は、使用人たちとともににごり酒や洋酒の一杯売とぶどう酒再製に力を入れたために、その評判はますますあがり、他にも模造品が出回るほどであった。
ぶどう酒を入れる容器は、草創期のことであったから、はじめ輸入したイギリスパース会社のビールあきびんを買い集めてこれに当てていたが、これには、親の恩を忘れぬために父兵助の雅号「香竄」(こうざん)の二字を記したレッテルをはった。

特別展「カミヤの至宝」のカタログによると、
「香」は、穀物や果実などから生じる甘いかおり。
「竄」は、「かくれる」の意。

「豊かなかぐわしい香りが、ひっそりとかくれ忍んでいるさま」である。
神谷傳兵衛は、親の恩を忘れぬために新しいぶどう酒にこの名を付けた。

「合同酒精社史」は、次のように記す。
明治13年頃の洋酒といえば、葡萄酒(生ブドー酒)と麦酒が代表で、いずれも3,000石(1石は、180.39 リットル)ほどの輸入であった。両者の国内製造はまだ試験期とみられ、課税も免許税だけで、造石税は免除されていた。
神谷は、日本人に合う甘味で口当りのよい葡萄酒の製造を志し、内地産葡萄の実を搾って得た液に酒精、酒石酸、タンニン酸、砂糖その他を加え、9斗ほど造ったという。
しかし、一般に顧みられなかった。
神谷は屈することなく、次に横浜在住の外人を経てフランスの葡萄酒(樽詰)を輸入し、これを原酒として調製、さらに飲みやすい瓶詰の甘味葡萄酒にした。瓶は英国からの輸入ビールの空瓶を買求めた。
明治14年秋であった。神谷は父兵助の雅号「こうざん」をとり、香竄葡萄酒と命名したのである。

次々回、登録商標のところで書くように、当初は「蜂印」「香竄印」の二銘柄があったとのこと。




宮崎光太郎「大黒天印甲斐産葡萄酒」の発売が明治19年。
鳥井信治郎「赤玉ポートワイン」が、遥か後年の明治40年。
神谷傳兵衛が、いかに先取の人だったか、がわかる。

【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
■ 特別展「カミヤの至宝」 (平成14年10月20日 合同酒精発行のカタログ)
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行)

#神谷酒造・合同酒精

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