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神谷傳兵衛(8) 独立~「みかはや銘酒店」の開業 。

明治13(1880)年 (傳兵衛24歳)
4月、東京浅草区花川戸4番地に「みかはや銘酒店」の屋号で酒の一杯売を開業する。



実際に使われた暖簾、行灯、硯箱などの店の什器と
前掛、股引、脚絆などの作業用の衣服類。

「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、
傳兵衛は独立するにあたって、まず小さな酒の一杯屋からはじめ、やがて資本を蓄積した上で、かって横浜で修業した志を立てぶどう酒の製造業を起こそうと計画した。
問題は、一杯屋の場所である。そこで、あれこれと思案した結果、浅草観音付近に着眼した。当時この付近は、仲町通りも軒が低い粗末な家がまばらに建てられ、十二軒茶屋が縁日に繁盛している程度であった。同所がレンガ造りに改まったのは明治18(1885)年12月になってからである。傳兵衛が一杯屋をはじめようとした明治13年当初ごろまでは、だれもその後の盛況を予想しなかったのである。しかし傳兵衛は、この位置の将来性を考えてみた。東京ほど神仏の信仰心の強いところはない。縁日に人手が多くにぎわうのは、このためである。浅草観音は、こんな見込をつけたのである。そして雷門付近に適当な家を探した。
幸い、広小路通りの吾妻橋に近い花川戸町4番地に2間(3.6m)に7間(12.6m)(14坪)の借家が見付かった。傳兵衛は、早速これを借り受けて若干の改修を行ない、明治13年4月にごり酒の一杯売をはじめた。おそらく東京でのはかり売り(ワンカップ)の元祖であろう。このときの資本金は63両。これは、天野鉄次郎方の酒の行商で蓄えた金であった。開店当日の売上高は、7貫300文にもなった。
独立自衛の出発としては、まずまずの成功であったといえる。



創業の地、花川戸町4番地は、現在の浅草1丁目1番地1号。
「神谷バー」がある場所である。
屋号は、傳兵衛の故郷の地名(三河国。現在の愛知県)にちなんで「みかはや銘酒店」と名付けられた。
この花川戸は蜂葡萄酒の発祥の地となり、ひきつづき関東大震災まで(途中移転を挟んで)醸造場でもあった。



神谷バーは、バーの開店年(1912年)ではなく、
「みかはや銘酒店」の開業年を起源と記す。
今年、「みかはや銘酒店」開業130年である。

「合同酒精社史」より、一部を引用)
神谷は横浜~麻布時代の酒づくりの経験をぞんぶんに活かしてにごり酒を製造するかたわら輸入葡萄酒の再製も試みる。また国産葡萄酒の研究、それも日本人に適するような甘味葡萄酒の製造をくわだて、内地産の葡萄をしぼり、得た液に、酒精、砂糖その他数種の薬品を混和しながら、いろいろと研究に苦心を重ねてゆく。そして蜂印香竄(こうざん)葡萄酒の発売にいたる。

開業の翌年の秋である。

【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行)

#神谷酒造・合同酒精

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