商売は順調に伸びていた松太郎は、延取引の投機に手を出し、失敗。
好事魔多し。
さらに詐欺にもあう。
窮した松太郎は、横浜へ・・・。
明治6(1873)年 (傳兵衛17歳)
4月、横浜へ出る。
「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、一部を引用)
経営不振に陥ったときの「泣きつらにハチ」(詐欺のこと)であった。松太郎にとっては、まさしく一大危機であった。
松太郎がこんな状態にあったとき、兄の桂助が帰省していて、
「東京か横浜へ出て働いてはどうか」
と、しきりに勧めたのである。このままの状態ではどうにもならない。よく考えてみれば兄の勧めは一つの打開の道でもある。
「再起を期したい」
このように考えた松太郎は、早速この進めに応じ、郷里松木島を思い切って去る決心をしたのである。
旅立ちは、松太郎が17歳になった直後の明治6年4月の吉日であった。母は、このための旅費として金3両を工面し、新しいさつまがすりの着物を用意してくれた。松太郎は、母が用意した着物を身につけ、旅費の包をふところにして、小さな手さげかばん一つを持つという軽装で出立した。もちろん近所の人々には、「豊川稲荷の参詣に行く」と表向きの挨拶をして出立したのである。兄の桂助のあとを追いながら村境までくると、松太郎は今さらながら母の深い慈愛が身にしみてきて、思わず立ちどまり、わが家の方をふり返った。
「必ず、横浜に行って成功してみせる」
松太郎は、右手を強く握りしめ、そう心に誓った。
松木島村から横浜までの道のりは、約70里(270キロ)。1日10里の歩行で6泊7日の旅であった。
箱根山道に入る三島宿に着いたときには母が工面してくれた3両はほとんど使い果たしてしまった。やむなく手さげかばんの中の着替えの着物を金に換え、やっとの思いで横浜にたどり着いた。仮の宿は、兄の知人高須傳七宅であった。職が見つかる間、松太郎はここに世話になったのである。
横浜へ落ち着いてからのある日、松太郎は傳七の子を背負って街を歩いた。街は(松太郎が横浜に出る前年の)明治5年の9月、東京新橋との間に鉄道が開通した前後から大きく変化しつつあった。駅前の広場にはガス燈が取り付けられ、そこには人々の雑踏が見られた。新しく石やレンガで造られた家も建てられていた。
松太郎はついでに露店を見て回った。かっての経験からか、古道具屋の店先に立つと一本のキセルが目に入った。手に取って見ると、「掘出し物」であった。松太郎は早速それを300文で買い求めた。それからキセル商に持って行き、1両2貫文で買ってもらった。約20倍のもうけであった。
この取引を知った傳七は、古物商奉公をしきりに勧めたが、松太郎はついにその気になれず、しばらくは某運送店に雇われて、そこで働いた。
【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
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