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神谷傳兵衛(4) 自立~雑貨の行商。

松太郎、まだまだ酒の飲めない未成年!
多少、退屈な話でしょうが、ウイスキーグラスを傾けながら、しばらくお付き合いくださいませ。
m(_ _)m



慶応3(1867)年 (傳兵衛11歳)
松太郎近郷の村々に雑貨の行商を行なう。

「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、一部を引用)
三河国は古くから綿を栽培し、綿布の産出も盛んであった。この地方の綿栽培のはじめは江戸時代初期ごろと推察できるが、すでに18世紀には摂津・河内(大阪府・兵庫県)・瀬戸内沿岸地方と並んで一大主産地となっていた。なかでも松太郎の出生地幡豆郡は、その中心的位置を占めていた。したがって、この地方には綿の仲買を行う商人も多く、松木島村に隣接する一色町は面の集散地として賑わっていた。
松太郎は、植村の姉婿品川屋徳太郎方で若干の期間商業の道を習い覚え、このような状況の松木島村に帰って来たのである。そこで、まもなく習い覚えた商人の道を選び、盛んな綿作に目を向けて綿の仲買人として自力で身を立てることを決心したのである。

明治元(1868)年 (12歳)
父から資本金を借り受けて綿の実やぬかの買出しと行商を行ない、一色町の綿問屋太田伊八方に売り若干の利益をあげる。

仲買に必要な資本金は、毎日父から五貫文(銭5,000文=1両1分)を借り受けた。それで近村を歩いて綿を買い集め、一色町の綿問屋丸大太田伊八方に売りはじめた。当時、綿実の仲買は100匁(もんめ)(375g)について15文のもうけとなったから、一日3貫匁(11.25kg)程度の綿を買えば資本を返してもある程度の利益が残った。松太郎はその利益を毎日貯金箱に蓄え、わずかな期間についに箱一杯にすることができた。そして父母の了解を得て、その金をつぎの仕事の資金にしたのである。
新たにはじめた仕事は、雑貨の行商であった。近村の鶏卵や草履などを買い集め、それをふご(物を運搬するために用いる竹や藁で編んだかご)に入れてかつぎ歩き、知多の酒造家で働く人たちに売るという仕事であった。当時松太郎は12歳。まだ体も小さくやせていたので、担うふごの方が大きいくらいであった。それを20キロ余もある知多までかついだのである。人々は、「神谷の松さんはふごの中に隠れて行く」と評し、これを賞賛したという。とにかく松太郎はこの仕事にも熱を入れた。

明治2(1869)年 (13歳)
名古屋におもむき米穀や綿の取引を行なう。

明治3(1870)年 (14歳)
伊勢におもむき米穀や綿の取引を行なう。

明治4(1871)年 (15歳)
引き続き大阪におもむき米穀や綿の取引を行なう。

明治5(1872)年 (16歳)
近郷の村々を歩き、綿の実、ぬか、古物、米穀などの売買業を行なう。

松太郎は酒造場のむしろからこぼれ落ちたフカシ(蒸した酒米)を安く譲り受け、菓子製造者に菓子の材料として売る仕事も始める。

往路は鶏卵や草履などの雑貨を運び、帰路はフカシを買い入れて菓子製造者に届け、数十倍の利益を得た。この思わぬ成功で、松太郎は商業に一層の自信と興味を持つようになり、やがて綿実やぬか、古物、米穀などの売買業も行ない、より一層商売に精を出した。これらは松太郎16歳ごろまでの様子である。

【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)

#神谷酒造・合同酒精

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