8歳のとき、松太郎は酒造家になる夢を抱くが・・・。
元治元(1864)年 (傳兵衛8歳)
高川原村桶職末蔵方に入り、桶製造の見習となる。
「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、一部を引用)
松太郎は、明治6年(1873)、母の実家牧野栄吉方で一応の教育を受けると自分の家に帰って来た。まもなく、姉のユキが尾張国知多郡植村の品川屋徳太郎に嫁したので、たまたま父の兵助に連れられて徳太郎方を訪れたことがあった。
この地方は、古来から酒造家の多い地方である。知多の酒で知られ、灘につぐ銘酒の産地であった。酒造家はみな裕福で、豪壮な邸宅に住み豊かな生活をしていた。
これを旅先で見た松太郎は、小さな胸に酒造家志望の夢をふくらませた。帰宅すると松太郎は、早速祖父の栄吉をたずね、酒造家志望のむねを訴えた。希望をかなえるには当時の神谷家の状況から見て、まず酒造家に奉公することが第一の条件である。だが松太郎はまだ幼く、どのように考えても無理な相談であった。栄吉は、松太郎の訴えを熱心に聞いたうえで、酒だる造りを見習い、それから酒造家へ奉公しても遅くないことを諭した。そして同村の桶職末蔵方に弟子として住み込ませた。
幼い松太郎は持前の熱心さで一心に修業したが、「たががけ」がどうにも上手くできずに、桶職修業を断念する。
慶応元(1865)年 (9歳)
松木島村の自宅に帰り、教栄寺住職義教の門人となり習字を修める。
11月、尾張国知多郡植村(現愛知県知多郡阿久比町植大)の品川屋徳太郎方(姉ユキの婚家先)に商業見習として住み込む。
義教の教え方は、読書や算術は除き、読書や算術を除き、ただ黒い紙に毎日水筆で習字をさせるといったもので、松太郎の興味をそそるものではなかった。
そんなとき、姉婿の品川屋徳太郎が松太郎のために訪れた。そして「自分のところで商業見習をさせてはどうか」と説き勧めた。この好意に、父の兵助も次第に動き、まもなく松太郎は植村の姉婿徳太郎方へ預けられることになった。
品川屋徳太郎方は、当時古着ぼろくず、その他雑貨の売買を業としていた。松太郎は、徳太郎方に落ち着くと、早速この仕事にしたがった。朝早くからぼろくず買いに出歩き、夜にはそれを整理する。紙、布などのように区分し、さらに用途別にえり分けて売る準備をするのである。
ある日のこと、例のようにふご(物を運搬するために用いる竹や藁で編んだかご)をかついでぼろくず買いに歩いての帰途、道端に光る物を見つけた。拾ってみると小判であった。「だれかが落としたにちがいない」と尋ね歩いてやっと落し主を探し当てた。落し主は松太郎の正直に感動し、返礼に菓子折りをたずさえて厚く謝辞を述べた。このことがあってから「松さんは正直者」と、この界わいでは評判になって信用は一層高まった。
松太郎は、こうして姉婿の家で熱心に商業見習を行ない、一通りの心得を積んだ。
慶応2(1866)年 (10歳)
1月11日、自宅に帰り家事を助ける。
【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
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