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オーシャンの系譜(18) 三楽酒造、総合酒類メーカーへ。

昭和20(1945)年にはいると、本土への空襲はますます激化し、主要な工業地帯や都市が、ほとんど壊滅的ともいうべき被害をこうむった。当社の木造建築はほとんど焼失してしまった。
しかしながら、幸いなことに川崎工場をはじめ主要な製造場はコンクリート造りの建屋であったため、そこに設置された製造設備は大部分が被害をまぬがれることができた。

昭和農産化工は、創立の原点であるアルコールおよび合成清酒の製造に戻る。

昭和24(1949)年
6月25日
社名を三楽酒造に変更。

昭和30年代にはいると、和酒部門の規模拡大と、洋酒部門の拡充により総合酒類メーカーを目指す。

【和酒】
合併、買収は10年間で十社を超える。主なものだけを上げる。

昭和32(1957)年
日新酒類工業買収。愛知発酵工業合併。

昭和36(1961)年
大和醸造合併。

昭和38(1963)年
丁字屋醸造営業引受。

昭和39(1964)年
百万両酒造営業引受。

昭和40(1965)年
東邦酒類合併。酒主酒造営業引受。

【洋酒】
1.ワイン。
昭和36(1961)年
5月1日
日清醸造を吸収合併し、「メルシャン」ブランドを傘下に置いたことは既に述べた。

2.ビール。
昭和36(1961)年
9月16日
川崎工場、発泡酒試験製造免許下付。

昭和30年8月、宝酒造が製造免許を取得してビール業界への進出(*)に踏み切った。
(*)発売は昭和32年4月1日。
このことが当社にも大きな刺激となってビール問題の具体的な検討を始めることになった。
当社ではビール製造のための技術的な検討や市場調査などを進めた後、昭和36年になって、まず川崎工場で発泡酒の試験製造免許を申請し、9月に下付された。この時期、発泡酒の試験免許を下付されたのは、合同酒精東洋醸造がある。さらに、この年にはサントリーがビール部門への進出を発表し、業界では”次は三楽”という評判がもっぱらであった。事実、当社も進出を計画し、川崎工場での試験研究と平行して、技師を技術習得の目的で、ドイツに派遣した。一方、国内では東京近郊、千葉、埼玉、神奈川等々で工場敷地の物色まで行った。

こうしてビール業界へ進出の調査はかなり進んでいたが、先に進出した宝酒造サントリーの2社がキリンサッポロアサヒという既存メーカーの厚い販売網の壁に阻まれて苦戦している状況からみると、新規参入者の販路開拓はきわめて厳しいと判断された。そこで当社としては、ひとまず洋酒部門のいっそうの充実に力を注ぐことにして、ビール部門への進出は断念するに至ったのである。

3.ウイスキー。
昭和36(1961)年
10月12日
山梨工場、竣工。

昭和37(1962)年
7月1日
オーシャンを吸収合併。「オーシャン」ブランドを傘下に置く。
三楽オーシャンに社名変更。



景品付特売はすでに昭和30年頃から行われており、いずれにしても宣伝の強化がシェアを左右する時代であった。
俗にサントリーニッカオーシャンによるウイスキー戦争である。

しかしながら宣伝費の膨張は当然のことながら経営を圧迫する。すなわち華やかな宣伝競争は同時に裏面では激しい合理化競争を意味していたのである。
そこでオーシャンの側からみると、第1に三楽酒造の全国的な工場配置と販売網を利用することによって販路の拡大が期待できること、第2に三楽酒造の原料アルコールを利用することでかなりなコストダウンが可能になること、等々のメリットがあった。
ちなみに当時、三楽酒造オーシャンの間では1石(*)あたり約3000円の差があり、二代目宮崎光太郎社長以下、当時のオーシャン首脳陣はこの3000円を宣伝費に投入することによってサントリーニッカに対抗しようという構想を抱いていた。

(*)1石は、180.39リットル。

他方、三楽酒造の側からみれば、山梨工場を建設したとはいえ、洋酒メーカーとしての実績は微々たるものであり、消費者の間に三楽酒造と洋酒のイメージを結びつけて定着させることは容易ではない。ところがオーシャンとの合併によってこの問題は殆んど一挙に解決することができる。すなわち懸案であったウイスキー部門の拡充が一挙に実現すると同時に、メルシャン・ワインオーシャン・ウイスキーという二つの柱を得ることにもなるのである。これに従来の和酒部門を加えれば、まさしく総合酒類メーカーとしての地位を確立することになる。

三楽酒造は、買収と合併により念願の総合酒類メーカーの地位を築いた。

【参考図書】
■ 三楽50年史 (三楽株式会社社史編纂室、昭和61年5月発行)

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