「ある洋酒作りのひとこま」より。
帰京後、先ず実験室でミドル・カットなどの一般分析などを試み、他社から入荷したモルト・ウイスキーの貯蔵原酒などの分析値と比較した。
原酒を戦争中から製造していたのは、壽屋(現サントリー)、大日本果汁(現ニッカ)、東京醸造、宝酒造などであった。戦後、いち早く輩出した3級ウイスキーは、東洋醸造など原酒生産から着手した会社はあったが、当時の3級ウイスキーは原酒をほとんど使用しないでも、法的には、香味、色調が類似していれば認可された。オーシャン・ウイスキーは香料や調味料を使用しないで製造すると発表していたが、使用した原酒はニッカ、宝、東洋醸造、東京醸造から買いつけていた。自社製の原酒使用が最大の急務であった。
上記からは、昭和21年発売当初から「オーシャンウイスキー」には他社製のモルト原酒が混和された「良心的なウイスキー」だったことが分かる。
著者は、モルト・ウイスキー製造の実験と研究に没頭する。
昭和27(1952)年11頃の稼動再開までに遮二無二実験を繰り返したことが思い出される。
しかし、ウイスキーだけに没頭は許されない。
9月初めの塩尻工場の生ブドウ酒仕込要員として、再度出張命令が下った。
すでに秋のワイン仕込みの総責任者として田中さんが出張しており、またウイスキー製造再開時に備え、Ⅰさんが製造担当を希望して赴任していた。
ブドウの収穫が終了し、生ブドウ酒製造の仕込みが終了に近づくと、待っていたかのようにウイスキー原酒の製造が急遽再開された。深井戸による仕込用水の確保がなされ、モルト原酒製造棟がブドウ酒製造棟に隣接して新設された。
11月18日の酒母製造から、私はこの年3度目の出張を命ぜられ、専任製造担当のⅠさんを補佐した。休転期間中の実験した試験結果を専任者に伝え、製造を再開したのである。
年が明けて昭和28(1953)年に入り、Ⅰさんの月々の製造報告を検聞し、試験室員は T さんを始め、交替で時々塩尻工場に出張した。
私は5月の中旬から末まで出張し、実験の結果を現場に生かして製造を継続してみた。
芳しい結果は出ない。
昭和28(1953)年のブドウ仕込みが終了して、モルト原酒製造が予定通りに始まった。Ⅰさんからの報告によると、翌年春頃から糖の喰い切れが悪くアルコール発酵が順調でない。
昭和29(1954)年に入り、試験研究室から塩尻工場に出張して仕込み作業を開始したが、相変わらず発酵状況は良好でなく、解決策を試みたが結論は見出せなかった。
酵母が萎縮していたことが判明し、最初に仕込み水があやしいと思った。
塩尻の現場では、仕込水の検討に没頭した。集水雨水や奈良川水や平出遺跡の近くの洗馬泉水なども使用して醸造テストをした結果、深井戸水のみが酵母を萎縮させ発酵阻害を起こすことが明確になった。
1kl 程度の木桶の底部にバラス・砂・木炭のフィルターベットを作り、熱殺菌した深井戸水を投入した。その濾過水をマンガン・ゼオライト層に通して仕込み水を供するやり方で、正常な仕込みが可能になっていた。しかし、こういった姑息な対応策は根本的に見直す必要に迫られていた。
年末の押し迫った時、私は上司の田中室長と一緒に成田専務に呼び出された。試験研究室の生温い対策の改善と、今後の塩尻工場でのモルト原酒生産の充実は図るという趣旨のもと、私に転勤命令が下った。間もなく、ウイスキー造りに興味を抱いていた、のちにワイン文化論等で有名になる浅井昭吾さん(現酒造技術コンサルタントでありエッセイスト、ペンネームは麻井宇介)にも転勤命令が下ったのである。
昭和30(1955)年正月早々、私ども二人は大きな責任を背負って、新宿駅から試験研究室一同の見送りを受けて出発した。これはまた、オーシャンにかけた青春のスタートでもあった。
赴任後、2月初旬から仕込みを開始した。仕込み水は深井戸の処理水と時々洗馬泉水を使用した。
姑息なウイスキー造りを自認していた著者らは、根本的にモルト原酒の製造を検討し、軽井沢ディスティラリーの建設を具申し、本社は認可する。
モルト原酒製造開始の昭和27年3月から紆余曲折を経て、昭和30年11月までの塩尻での総生産量は、アルコール65%換算で230kl強であった。未熟で満足できる品質ではなかったが、3年間樽貯蔵しなくとも原酒として使用できるという税法上の規則を楯に、モルト原酒を2級(旧3級)ウイスキーの原酒混和に使用していた。
軽井沢ディスティラリーの製造開始は全社から期待されていた。
旧酒税法では、ウイスキー原酒に「3年以上の樽熟成」を定めていたが、昭和28年の現酒税法はこれを外した。
世界に例を見ない改悪であった。
【参考図書】
■ ある洋酒造りのひとこま (関根彰著。平成16年6月24日発行、たる出版刊)
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