オーシャンウイスキーの大黒葡萄酒は、山梨県勝沼町の宮崎光太郎(敬称略)が葡萄酒の製造から興した会社である。
ウイスキーから暫らく離れるが、オーシャンのルーツである国産葡萄酒の黎明から話を始める。
経済産業省「近代化産業遺産群33」(65ページ)が簡潔に解説しているので引用する。
以下引用。(読み易くするため、途中改行した)
我が国のワイン製造は明治時代に入ってから始まった。
明治政府は、米不足の緩和のための日本酒消費量の削減と輸出産業創出を目的として、欧米からぶどう苗木を輸入し、全国各地でワイン製造を奨励した。
また、政府による官営事業として、1876年に現在の北海道札幌市に開拓使葡萄酒醸造所が、1880年に現在の兵庫県稲美町に国営ワイナリー・播州葡萄園が開設された。
「米不足の緩和のための日本酒消費量の削減」を目的として、同じく明治9(1876)年に開拓使麦酒醸造所(のちのサッポロビール)が開設されている。
引用を続ける。
開拓使葡萄酒醸造所は山梨県立葡萄酒醸造所に勤務した桂二郎(桂小五郎の弟で、後の日本麦酒醸造会社第3代社長)に1886年に払い下げられ、大正期まで操業を続けた。
播州葡萄園はワインなどを試醸したが、その後害虫や悪天候による壊滅的な打撃を受け、1886年に前田正名に経営を委託し、1888年同人に払い下げられるも、1890年代に廃園となった。
(12月16日追記)
コメントのご指摘のとおり、桂二郎は桂小五郎(木戸孝允)ではなく、内閣総理大臣桂太郎の弟である。
一方、鎌倉時代からブドウの栽培が行われ、江戸時代には既に食用ブドウの産地であった山梨県の勝沼周辺では、明治初期に山田有数と詫間憲久の両名によるワイン製造の試みが開始され、続いて1877年には山梨県による県立葡萄酒醸造所が完成した。
さらに同年、官民の協力により現在の勝沼に大日本山梨葡萄酒会社を創設し、高野正誠と土屋助二郎(のちの龍憲)の二人をフランスに留学させ、本場のワイン製造技術を導入した。
大日本山梨葡萄酒会社は1886年に解散するものの、宮崎光太郎と土屋らは甲斐産商店を設立して醸造を続け、その後大黒葡萄酒㈱、オーシャン㈱(現:メルシャン㈱)へと発展した。
土屋は1891年に甲斐産商店を退き、マルキ葡萄酒(現:まるき葡萄酒㈱)を設立した。
高野は大日本山梨葡萄酒会社解散後、栽培や醸造技術の普及に努め、1890年に「葡萄三説」を著している。
山梨県内の官営のワイン製造は明治中期に途絶えてしまうが、フランスで農業経済の知識を身につけ、地方在来産業の振興と輸出産業への育成を志し、一時山梨県令も努めた前田による振興策や普及活動もあり、民間ではその後もワイン製造への取り組みが拡大した。
登美高原では、1909年に小山新助が近代ワイナリーの先駆けである登美農場を開設した。その後、ワインの品種改良に尽力してきた川上善兵衛と壽屋(現:サントリー)の創業者・鳥井信治郎の協力により1936年に壽屋山梨農場として再出発し、現在の登美の丘ワイナリーへと発展してきた。
洋酒の壽屋、「やってみなはれ」の鳥井信治郎のこと、ちゃんと手を打っていた。(笑)
また、ワイン製造業の発展にあわせて、1896年から1903年にかけた中央本線八王子~甲府間の建設と1913年の勝沼駅開業により物流面が大幅に改善するとともに、その煉瓦による鉄道トンネル技術よりワイン貯蔵庫の建設技術が向上し、龍憲セラーなどの煉瓦造ワイン貯蔵庫が建設された。
JR勝沼ぶどう郷(旧勝沼)駅を八王子方向に300mほど歩くと、新旧の大日影トンネルがある。
左が、中央本線が通るコンクリート製の現役トンネル。
右は、レンガ造りの旧トンネルだ。
引用。
また、1915年に日川水制、1917年に勝沼堰堤が竣工して水害による中央本線や甲州街道の寸断が無くなり、東京など遠隔地との物流が安定した。
メルシャン勝沼ワイナリーの北側を流れる日川は、富士川の支流である笛吹川のさらに支流で、大菩薩峠を源流とする川である。
中央本線が開通するまで、富士川が山梨と静岡(さらに東京)を結ぶ水運の要路だった。
日川の読み方には、ひかわとにっかわの二通りがあるようだ。
日川堰堤の山梨県設置の看板の表示は、HIKAWA。
祝橋の甲州市教育委員会設置の看板のルビには、にっかわ。
ウイスキーファンとしては、にっかわと呼び慣わしたい。(なぜじゃ?!=笑)
また、1920年に山梨田中銀行が設立されて地域の経済活動を支えるとともに、1930年には祝橋が竣工して各醸造所と勝沼駅との自動車輸送が強化された。
祝橋とは、木製の吊り橋からコンクリート製に架け替えられた三代目のアーチ橋のこと。
完成年には、昭和5年と昭和6年の二説がある。
・昭和5(1930)年11月25日 竣工
・昭和6(1931)年4月4日 開通式典
が正しい。
架け替え前の二代目木製吊り橋。
引用。
このように山梨県においては、明治中期以降も政府による技術者派遣などの支援を受けながら近代的なワイン醸造に向けた取組みが継続・推進され、勝沼の町を中心に我が国を代表するワイン産地としての礎が築かれた。
明治中期以降のワイン製造に取組む民間の動きは山梨県外でもみられ、その代表的なものとしては、1903年に茨城県牛久の地に、浅草「神谷バー」の名でも知られる神谷傳兵衛により開設され、フランス種の葡萄とフランス・ボルドー地方の高級ワイン製造法を採り入れ、葡萄栽培から瓶詰出荷までを一貫生産する我が国初の本格的ワイン醸造酒となった牛久醸造所(現・シャトーカミヤ)がある。
【参考図書等】
■ 経済産業省「近代化産業遺産群33」
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