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宮城峡蒸溜所、祝40周年!

今年、ニッカウヰスキーの宮城峡蒸溜所が、竣工・操業から40周年を迎えた。



余市が潮風の蒸溜所なのに対して、宮城峡は緑の杜の蒸溜所だ。



蒸溜所入口には、「ありがとう、宮城の自然とともに40年」の感謝の言葉。



ゲストホールにも、感謝の垂れ幕。



ホールの一画では、「蒸溜所の40年間」をパネルで振り返っていた。



操業までの足取り(展示パネルとHPから)。

昭和42(1967)年
2月
竹鶴威(第2代マスターブレンダー、現相談役。以下敬称略)をはじめとする特命班が、岩手・宮城・福島の3県にて用地探索を開始。
「環境がよく、近くにきれいな川があって、ある程度の平地が用意できる、というのが条件ですが、政孝おやじからは「水田は潰さないように」とも言われていました。明治の人ですからお米をとても大事に考えていたんでしょう。しかし、水田に使われていないで、しかもかなりの平地を探すのはとても大変でしたよ」(竹鶴威)
「琥珀色の夢を見る~竹鶴政孝とニッカウヰスキー物語」(松尾秀助著。2004年、PHP研究所刊)より。

4月19日
建設候補用地(現在の宮城峡蒸溜所がある場所)を発見。

5月12日
竹鶴政孝が現地を視察し、建設を決定
第一候補の仙台・宮城峡に連れて行った。新川のほとりに来ると、政孝は「ウイスキーを持ってこい!」と命じ、コップに川の水を汲んで水割りを作った。「実にすばらしい水だ。ここに決めたぞ!」と言って座りこんだ。まだ二ヶ所の候補地があったが、政孝は「これ以上の場所はない」と、動こうとしなかった。「決断の早い人でした」と威は回想している。(「琥珀色の夢を見る」より)

川原に建つ「ニッカ仙台工場建設決定の地」碑。



蒸溜所で使用するすべての水を、川底からおよそ4メートル下を流れる新川川の伏流水を汲み上げている。



8月
現地調査。

(調査時の写真。展示パネルから)



11月
第1期工事着工(翌年9月に完工)。

昭和43(1968)年
3月
起工式。
4月
ニッカ橋渡橋式。
9月
上棟式。

(運び込まれる蒸溜釜)



蒸溜器の大きさは、仙台港へ到着してトラックに積み直されて蒸溜所へ運ばれる部品が、当時の国道48号線にあったトンネルを通行できる寸法から決められたという。
道路が付け変えられたときにトンネルは廃道になったので、今ならもっと大きな蒸溜器になっていたのかも知れない。

昭和44(1969)年
3月27日
蒸溜器火入れ式。
初めて仙台モルトの再溜原酒が蒸溜器からほとばしり出た時、竹鶴政孝は工場の全従業員145人を集めた。
「会長(竹鶴政孝)は全従業員の前でテイスティング・グラスに取った原酒の香りを嗅ぎました。そして、「工藤、来い!」と私を呼ばれ、「この原酒は新川の水が生んでくれたものだ。これをまず新川に返してこい」と言われました。私は感動で涙が出るのをこらえながらそのグラスを持って400メートル離れた新川まで走り、注いできました」
そう語るのは建設に関わった社員だ。
(「琥珀色の夢を見る」より)

5月10日
竣工式
竣工式は全国から酒販業の方々などお客様を招いて盛大に行われた。東京からは特別列車が出て、車内では食事やウイスキーなどが振舞われ、大変好評だったようである。
(「竹鶴威の回想」より)

(竣工当時。意外に緑の樹木が少ない)



5月
竣工記念ウイスキー「オールドニッカ」発売。
6月
地番が「ニッカ1番地」となる。

偶然、新千歳から羽田に向かう飛行機から撮影した宮城峡蒸溜所。
写真の下方向が仙台市内、上が山形県である。



拡大すると、蒸溜所の細部が分る。
中央の白い建物が、麦芽やトウモロコシを保管するサイロ。



余市はハイランド、宮城峡はローランドと称されるが、私は余市はアイラ、宮城峡はスペイサイドと感じている。
皆さんは、二つの蒸溜所にどんな印象をお持ちでしょうか?

#ニッカウヰスキー

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