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ジョセフ A.ネトルトン、それ誰?

ウイスキーマガジンの10周年記念号が、今日の世界的なウイスキー産業を形成した10人の偉人のひとりにジョセフ A.ネトルトンを選んだのは、ちょっと意外であった。

(以下、WMから引用)
おそらく、ジョセフ A.ネトルトン(Joseph A. Nettleton)の存在は、わずかな蒸溜専門家や歴史家を除いて、ほとんど忘れられているものだろう。しかしながら、その当時彼は多くの蒸溜所の開発にアドバイザーとして携わり、蒸溜技術に関してはまさに素晴らしい生き字引だった。
ただ彼は、その偉大な作品の中に生き続けている。1913年に出版された「The Manufacture of Whisky and Plane Spirit」は長年にわたり、規範を示すものとみなされており、第1次大戦前の蒸溜作業に関する知識の宝庫だった。19世紀末の伝統的な蒸溜方法について学びたいと思ったら、まず参照すべきはネトルトンの著書であり、マーケティング専門家が好むような衛生的でエアブラシ仕上げの施された歴史書などではない。

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大正7(1918)年、ウイスキー製造技術習得のためにスコットランドへ留学した竹鶴政孝(以下、敬称略)は、グラスゴー大学に聴講生として入学した。

グラスゴー大学の講義そのものは、すでに日本で勉強したことの繰り返しであったが、英語の勉強になった。
応用化学科の看板教授ウィリアム博士と私の最初の会話は、先生が教室で学生の名簿に目を通され、私を見たときのことだった。
 Mr. Taketsuru, are you Spanish?
 No I am not, I am Japanese.
そのとき以来、妙に私に関心をもって話しかけてくださるようになり、

講義が終ると、竹鶴はウィリアム教授に呼ばれた。
教授は一枚の紙に書名を書いてくれた。<J.A.ネトルトン著「ウイスキー並びに酒精製造法」>とあった。
「ウイスキー研究には欠かせない本だ。是非、取り組んでみるといい。だいじょうぶ、君の英語力なら充分読みこなせるはずだ」

ネトルトンは一通り読み了え、二度目に入っていた。しかし二度目になっても、不明の箇所はいぜんとして不明のままであった。
理由はわかっていた。一度も実地の体験をもたずに、書物の上だけでウイスキー製造法を学びとることが、しょせん無理な話なのである。

いつの頃からか、夢を見るようになった。
竹鶴は天洋丸に乗って、ロンドンから一路神戸に帰っていく。メリケン波止場ではなぜか、母が一人だけ出迎えに来ている。
―― 政孝、ウイスキーの勉強は全部終ったんか。そんなことではいけん。いますぐイギリスに戻りんされ。
夢はそこで終る。奇妙なことに、見る夢はいつも同じだった。

竹鶴は、ネトルトンに教えを請いに行く。

エルギンに来たのは蒸溜所に実習の機会を見つけるためであったが、この町に住む「ウイスキー並びに酒精製造法」の著者ネトルトンに会い、できれば直接教えを受けたいとも考えていた。
竹鶴政孝はさっそく、ネトルトンを訪ねた。
「わたしの講義を受けたいなら、毎日午後5時から1時間半ということでいかがかな。もちろん、製造方法を実際に即して教えてあげられる。そうだな・・・、わたしの謝礼は最初の月が20ポンド、次の月から15ポンドでいい」
名のきこえた権威者の口から、いきなり金銭の話が飛び出した。20ポンドといえば、日本円で160円。この国でも、グラスゴーからエルギンまで一等往復汽車賃が3ポンドであることを考えれば、決して少ない金額ではない。

竹鶴は、諦める。
ネトルトンが提示した個人授業料が適正な価額だったのか、竹鶴の足元を見て大金を吹っかけたのか、それとも婉曲に断るために高額を提示したのか、真意は不明である。

(ネトルトンの)その本を今見ると、「毎日が苦しい、しかし頑張り耐えねばならぬ」など勉強の間に、われとわが身をはげますための走り書きが日本語でしたためてあるのもなつかしい思い出である。



写真は、余市蒸溜所のウイスキー博物館に展示されている竹鶴の汽車の切符。

  字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
  字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。

#ニッカウヰスキー

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