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竹鶴政孝を歩く(3) ニッカウヰスキー会社創立の地。

大正12(1923)年
6月、鳥井信治郎(以下、敬称略)に乞われて、竹鶴政孝は10年間の契約で壽屋に入社。

昭和9(1934)年
3月1日、足掛け11年在籍したのち壽屋を退社。

7月2日、「大日本果汁株式会社」(のちのニッカウヰスキー)を設立。
出資者は、加賀正太郎、芝川又四郎、柳沢保恵、竹鶴政孝。
創立の経緯は、以前に書いた。

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今回は、会社設立の商法上の手続きがなされた場所の話である。

以下は、「リタとウイスキー~日本のウイスキーと国際結婚」(オリーブ・チェックランド著、1998年、日本経済評論社)より。

大日本果汁株式会社発起人会
昭和9(1934)年6月8日、発起人会を加賀商店(大阪市東区(*)今橋2丁目9番地)で開催し、事業計画の趣旨書と会社設立に関する約款を決めた。
発起人は、加賀正太郎、芝川又四郎、柳沢保恵、上住夘一、河原改栄門、石田凞、岡本圭蔵、和田義郎。
・資本金 10万円
・創立委員長 芝川又四郎。 委員 上住夘一、河原改栄門。
・創立事務所を芝川ビルディング(大阪市東区(*)伏見町3丁目33番)に置く。

* 現在は中央区。

創立総会
昭和9(1934)年7月2日、創立総会を芝川ビルディングにおいて、芝川又四郎を議長として開催し、その後の取締役会を経て会社の設立を完了した。
総会には株主11人、投票権を持つ代理人4人が出席(発起人引き受け株の残りを縁故募集した)。
・取締役 竹鶴政孝(専務)、上住夘一、河原改栄門、石田凞。
・監査役 岡本圭蔵、和田義郎。
・顧問  柳沢保恵。
・相談役 加賀正太郎、芝川又四郎。
・本店  東京市大森区(**)新井宿2丁目1669番に置く。(翌年、日本橋に移転)
・大阪出張所 芝川ビルディングに置く。

** のちに蒲田区と合併し大田区。

上住夘一は加賀商店の番頭役、河原改栄門は芝川の関係者だった。ほかの発起人、株主も加賀、芝川の関係者と想像され、実質は加賀、芝川、柳沢、竹鶴の4人の会社であった。
興味深いのは、株主は大阪在住で、大阪で設立されたのにも拘わらず、本店(本社)を大阪ではなく、東京に置いたことである。

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芝川又四郎が建設した芝川ビル(昭和2(1927)年7月1日竣工)。
淀屋橋駅11号出口を出て、徒歩1分の場所にある。
伏見町は芝川が生れたところで、加賀が生れた今橋町、のちに竹鶴のカフェ式連続蒸溜機導入を支援する山本為三郎(初代アサヒビール社長)が生れた道修町とは、歩いて数分のところだ。



芝川ビルには、大日本果汁株式会社の創立委員会が置かれ、創立総会が行われ、大阪出張所が置かれ、ある時期まで会社の事務運営がなされていた場所(事実上の本社)であった。

竹鶴は、株主総会、役員会および重要な会議の際は、余市から函館へ、青函連絡船で内地に渡り、東北本線で東京へ出て、東海道本線に乗り換えて、遠路大阪まで行った。
三日の旅だったという。



いまも芝川ビルは現役で、貸事務所、店舗、飲食店として活躍している。



店舗、飲食店、廊下などの共用部は見学できる。



ところでHPに、地下金庫室からニッカウヰスキー1ケースが見つかったという記事(写真あり)が載っていた。
政孝氏ご子息で、第2代マスターブレンダー・竹鶴威相談役の見立てで、「戦中もしくは戦後間もない頃から昭和25年くらいまでのものに間違いない」とのこと。

記事に「弊社事務所の1階に展示」とあったので、楽しみにしていたが置いてなかった。
事務所の方に所在を伺って、親切に電話で確認までしていただいたが、芝川ビルには展示していないとのこと。
実は、芝川ビルを所有管理する千島土地㈱の事務所に展示されているという。
是非、次回はこの歴史的なウイスキーを見せていただきたいと思っている。

【コース】 淀屋橋駅 → 芝川ビル

   竹鶴政孝を歩く(1) 芝川又四郎と帝塚山の洋館。
   竹鶴政孝を歩く(2) 教鞭をとった桃山学院。
   竹鶴政孝を歩く(3) ニッカウヰスキー会社創立の地。

#ニッカウヰスキー

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