MENU

鳥井信治郎を歩く(3) 小西儀助商店。

明治25(1892)年 (13歳)
鳥井信治郎、薬種問屋小西儀助商店(大阪市東区(*)道修町)に入店。

* 平成元(1989)年2月、東区と南区が合併し中央区となる。

社史「やってみなはれ・みとくんなはれ サントリーの70年」
I.山口瞳著(戦前編「青雲の志について」)より、
13歳で、道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公する。「丁稚一名を求む」という小西儀助商店の新聞広告が残っているから、欠員があり、その一名が信治郎であったに違いない。
小西儀助商店は、現存する大きな薬種問屋である。漢方が主であるが、舶来の薬も輸入するし、葡萄酒、ブランデー、ウイスキーも扱うという、当時としてはきわめてハイカラな店であった。
薬種問屋で調合の技術を学んだ。この少年を高給で迎えたいという同業者が何人か訪ねてきたというのだから、その才気と調合の技術は早くも近隣にきこえていたのだろう。
小西儀助商店に三年間奉公した。その間によく先輩と喧嘩したらしい。これは信治郎の独立心とも関係のあることだろう。

明治28(1895)年 (16歳)
絵具染料問屋小西勘之助商店(大阪市東区博労町)に移る。

=====================

(是非、地図サイトを参照しながら、お読みください)

高麗橋を渡り、西へ進む。



広い堺筋の交差点に出たら、左折し南に向かうと、左手に漆黒の大きな日本式建築物が出現する。
まさに「出現」という表現が相応しい。
有形重要文化財「旧小西家住宅」パンフレット)である。



北を伏見町通、南を道修町通、西を堺筋と、三面が道路に面する建物で、下の写真から大きさが想像できると思う。
広い堺筋の反対側の歩道から28mmレンズで撮影したが、建物の全景が入らなかった。



小西儀助商店の沿革(HPパンフレットより)。
・安政5(1858)年  初代小西儀助が道修町において小商いを始める。
・明治3(1870)年  薬種商を買収、大坂薬種商組合に登録しこれを以て会社の創業とする。
・明治7(1874)年  「小西屋」の屋号で本格的な薬種商を始める。
・明治17(1884)年  アサヒ印ビールを製造。現在のアサヒビールの前身となる。
・明治21(1888)年  大阪洋酒醸造会社(資本金15,000円)を設立、ビール、ブランデー、ウイスキー、アルコールなど製造販売。
・明治末期(1912年頃) 問屋業務に専念。輸入アルコール、工業薬品、洋酒、食料品を販売。
・大正14(1925)年  「株式会社小西儀助商店」に改組。資本金50万円。
・昭和56(1976)年  コニシ株式会社に社名変更。
(接着剤「ボンド」が有名)

注目すべきは、鳥井信治郎が奉公に上がる8年前に、ビール事業に参入していたこと。
大阪麦酒会社(明治22(1889)年11月設立。アサヒビールの前身)がアサヒビールを発売するのは、明治25(1982)年5月である。
従ってビール事業から撤退し、商標「アサヒビール」を売却したのは、明治21~25年と推測できる。
信治郎が入ったのは、ビールを止めて、ブランデー、ウイスキー、葡萄酒などに力を入れている時期だった。



旧小西屋住宅の変遷。
・明治33(1900)年  道修町に1,060平方メートル(320坪余)の土地を購入。
・明治36(1903)年  木材集めから細部の意匠まで拘った小西屋住宅(道修町に面して主屋、伏見町に面して蔵、堺筋に面して貸家)が完成。
・明治44(1911)年  市電開通に伴い堺筋が拡幅。借家を撤去し約300平方メートルを提供。
・大正12(1923)年  関東大震災後、地震に弱いという理由で上屋の3階を撤去。現在の外観になる。

お気づきだろうが、信治郎が奉公したのは「小西屋」であり、我々がいま見る「旧小西家住宅」はまだ影も形もなかった。
「小西儀助商店」と改称したのは、信治郎が山崎蒸溜所を完成させた翌年である。

では信治郎が働いた小西屋はどこにあったのか?
コニシのHPによれば「明治3年、現本店所在地において創業」とある。
現在の本社は、道修町通を挟んだ向かいの「北浜TNKビル」という高層ビルだ。

第二次大戦の大阪大空襲、阪神淡路大震災をくぐり抜けた小西家住宅は、いまも現役で事務所として使われている。




堺筋を右折して、道修町(どしょうまち)の通を西に進むことにする。

江戸時代、薬の原料となる薬種は、日本産出の「和薬種」と中国やその周辺産地から輸入される「唐薬種」の2種類に分けられた。
中国船やオランダ船で長崎に輸入された唐薬種は、道修町の薬種中買仲間が真偽、量目を検査し、長崎本商人から買い付けて、一度道修町へ運ばれ、そののち全国へ流通して行った。
一方、和薬種は、江戸、駿府、京都、大坂、堺に設けられた和薬種改会所で検査し、全国に流通して行った。
各地の和薬改会所が廃止されると、道修町の薬種中買仲間が和薬種唐薬種の両方を扱うようになり、いまのような「薬の町」となった。(「くすりの道修町資料館」HPより)

南北100m、東西1kmのウナギの寝床のように細長い一帯に、いまも武田、第一三共、田辺三菱、大日本住友、塩野義、小野、小林など大手の製薬会社から中小の会社、問屋などがひしめいている。

「中国伝来強精薬」の大きな看板にはクスリとして、思わず写真に収めてしまった。(笑)



駅に向かって適当に筋を右折して北に向かうと、突然、大きな寺のような建物にぶつかった。



門を見ると幼稚園で、門柱横に「銅座の跡」の石碑。
この周辺は、大阪大空襲にも焼失しなかった建物が、地図に落とすと斑に残っているのだとか。



近くを探索していると、突然に出くわした!
近づいて見ると、蘭学者で医師だった「緒方洪庵の像」



建物の表に廻ってみると、小説やドラマで知っている「適塾」だった。
ほーぉ、こんなところにあったんだ。
大阪大学医学部の源流である。
嘉永2(1849)年、洪庵は天然痘予防のためのワクチンをつくる種痘所を設立したのだそうだ。



適塾から写真の通を右方向に2分弱歩くと、「淀屋橋駅」である。

【コース】 高麗橋旧小西家住宅(小西儀助商店)銅座の跡適塾 → 淀屋橋駅。

   鳥井信治郎を歩く(1) 生誕の地、大阪・釣鐘町。
   鳥井信治郎を歩く(2) 学び舎・北大江小学校。
   鳥井信治郎を歩く(3) 小西儀助商店。

#サントリー

この記事を書いた人