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鳥井信治郎を歩く(1) 生誕の地、大阪・釣鐘町。

地下鉄の天満橋駅から淀屋橋駅まで、凡そ1.5km。
鳥井信治郎(以下、敬称略)が学んだ北大江小学校跡、生家跡、奉公した小西儀助商店、そして後々述べる芝川ビルが狭い一帯に、東から西へほぼ一直線に綺麗に並ぶ。

大阪の地理に疎いが、
・東西の道を「通」、南北の道を「筋」といい、
・「町」は「通」に沿って東西に細長く区分けされ、東から「1丁目」「2丁目」・・・、と呼ぶこと。

この規則性が頭に入ると、町歩きが楽である。

それでは鳥井信治郎生誕の地を、散策する。

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明治12(1879)年
1月30日
鳥井信治郎、両替商鳥井忠兵衛の二男として誕生(大阪市東区釣鐘町)。

杉森久英著「美酒一代・鳥井信治郎伝」(昭和41(1966)年、毎日新聞社刊)より、
店は大阪市東区(*)釣鐘町にあった。正確に言えば、釣鐘町が骨屋町筋と交わる角にあたり、敷地は97坪81勺(**)である。商家としては場所柄もよく、町では相当の地位を占めていたと考えられる。
鳥井信治郎は明治12年(1879)1月30日、忠兵衛の次男として生まれた。忠兵衛40歳、母こま29歳のときの子である。信治郎には10歳年長の兄喜蔵(長男)、六つ上の姉ゑん(長女)、三つ上のせつ(次女)の兄姉があり、彼はその末子であった。

* 現・大阪市中央区。(平成元(1989)年2月、東区と南区が合併し中央区となる)
** 勺(しゃく)= 坪の100分の1。

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天満橋駅を下りると、北側を大川が流れ、天満橋が架かる。
写真は橋を背にして撮った、大阪水上バスの「八軒家浜船着場」。



駅の南側を走る土佐堀通を横断すると、永田屋昆布本店があり、「八軒家船着場の跡」の石碑が建っている。



店先に置かれた同店が発行する「八軒家の今昔・熊野街道のはじまり」と題した小冊子(非売品)を頂戴した。



小冊子には、
・平安朝時代には、八軒家のあたりは「渡辺」(渡し場の意味)、「渡辺の津」(津は港)と呼ばれた。
・平安貴族たちは、舟で京の伏見を出航。熊野街道の始点である渡辺に上陸して、天王寺、高野山、遠くは紀州熊野に詣でた。
・豊臣時代に、天満橋が架けられた。
・八軒家の名は、江戸時代、ここに八軒の船宿や飛脚屋があったことに由来した。
・東海道中膝栗毛の弥二さん、北さんが、大坂への第一歩を印したのが八軒家だった。
・森の石松の「すし食いねえ」の話も、八軒家出入りの舟に設定されている。

など、興味深い話が満載だ。

安藤広重の浮世絵「八軒家船着場の図」には、京と大坂を往来する三十石船が着いた様子が描れている。




それでは、鳥井信治郎生誕の地に向けて歩き始めよう。
(地図サイトを参照しながら、お読みください)

八軒家船着場の跡から、土佐堀通を西に向かって歩いて、最初の交差点が「御祓筋」で、左折する(南に向かう)と熊野街道である。
御祓筋を曲がらずにそのまま進むと、二番目の交差点が「骨屋町筋」松屋町筋の一本手前)。骨屋町とは、なんとも奇妙な町名だ。
左折して骨屋町筋に入ると上り坂で、すぐに左手に見えてくるのが「坐摩(いかすり)神社」である。



神社でもらったパンフレットの「御由緒」には、
当社の創祀には諸説がありますが、神功皇后が新羅より御帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島のちの渡辺の地(現在の天満橋の西方、石町(こくまち)附近)に奉祀されたのが始まりとされています。

確かに「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られていて、立派な屋根掛けがされていた。
当地に鎮座するのは行宮(あんぐう、かりみや)で、旧社地と伝えられている。



豊臣秀吉の大坂築城に当たり、坐摩神社は現在の中央区久太郎町に遷座する。
「御由緒」に、
明治元(1868)年の明治天皇大阪行幸の際には当社に御親拝なされ、相撲を天覧されました。
とあるので、大変に由緒ある神社らしい。

さて八軒家の小冊子に目を戻すと、
熊野九十九王子の王子は、熊野権現の御子神で、そこは熊野権現の遥拝所であり、熊野への道しるべであり、休憩の場所でもありました。紀伊路の第一王子がここ窪津王子でした。
とある。
窪津(くぼつ)は渡辺の別名で、窪津王子はここ、坐摩神社行宮にあったとされる。

以上、無料で頂戴した小冊子とパンフレットで、ひと通り俄か勉強をしてしまった!(感謝)

坐摩神社をあとにして、南に向かって歩く。
下の写真が第一の目的地、釣鐘町通(前後)と骨屋町筋(左右)の交差点である。
八軒家船着場の跡から、凡そ400m、徒歩4、5分のところだ。

(←左が南、奥が西↑、↓手前が東、右が北→)



鳥井信治郎の生家であった両替商(いまの銀行に近い)は、どの角地にあったのか?

南西の角(左手奥)は、延命山日限地蔵院。ここではない。
残りの三つの角地の何れかだが、決め手がない。
(サントリーに問合せれば分かるかも知れないが・・・)



130年近く前、この辺りは一種のビジネス街だったのだろう。
当時は高い建物がなかっただろうから、東に大阪城、西に六甲の山々が望めた。
もしかしたら、大阪湾も見えていたかも知れない。
ここを腕白坊主だった筒袖姿の信治郎が、元気に飛び回っていた。
まだ電気のない(信治郎が9歳のときに「大阪電燈」が設立された)、そんな時代である。



鳥井信治郎生誕の地から、坂道を東に50~60m上ると、町名の由来となった釣鐘屋敷跡である。

【コース】 天満橋駅 → 八軒家船着場の跡坐摩神社鳥井信治郎生誕の地。

   鳥井信治郎を歩く(1) 生誕の地、大阪・釣鐘町。
   鳥井信治郎を歩く(2) 学び舎・北大江小学校。
   鳥井信治郎を歩く(3) 小西儀助商店。

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