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鳥井信治郎(3) 洋酒の壽屋(戦後編)

社史「やってみなはれ・みとくんなはれ サントリーの70年」より。
字は、I.山口瞳著(戦前編「青雲の志について」*)、開高健著(戦後編「やってみなはれ」)から、
字は、II.資料編から引用。

昭和20(1945)年 (信治郎 満66歳。以下、敬称略)
3月13日
空襲により東区住吉町の本社社屋全焼。
6月1日
空襲により、大阪工場および大阪第二工場被災し、工場の大半焼失。
8月15日
敗戦。

「大将、元気だしたっとくなはれ」
作田はん、なにういてんのや。わてはなあ、これからさき、どないするか考えてんのや」
「このさきいうたかて、何もあらしまへんで。工場もあらへん。人もおらん。金もあらへん」
「山崎があるやおまへんか」
山崎工場のウイスキーの原酒は横穴を掘って、そのなかに積んであった。しまいには横穴が間にあわなくなって、土を掘って埋めてあった。
「山崎が・・・」
作田耕三の胸に小さな灯がついたようだ。
「やってみなはれ」
信治郎は、笑って、瓦礫のなかを歩きだした。
そのとき、壽屋に残っていたのは山崎工場だけだった。山崎のウイスキーの原酒の樽だけが残っていた。
うすぐらい横穴のなかで、深い土のなかで原酒が呼吸を続けていた。
*



山崎工場旧瓶詰場 (昭和23年)

昭和21(1946)年 (67歳)
2月1日
佐治敬三入社。
4月1日
トリスウイスキーを、戦後改めて発売。

昭和24(1949)年 (70歳)
7月21日
鳥井道夫入社。



若い敬三と老いた信治郎は何かといえば衝突し、両名はときに派手なショウを展開して社員たちをよろこばせた。敬三は家庭啓蒙雑誌の「ホーム・サイエンス」を発行し、・・・赤字がつづいた。信治郎と敬三はしばしば昂奮して議論した。
「うちはウイスキー屋でっせ!」
「ウイスキーだけが時代やないです!」
「うちは出版社やおまへんで!」
「これはええ雑誌です!」
「あかんというたらあかんワイ!」
「知らんのはとうさんだけや!」
「いうたな!」
社長室で何やら大声がしたかと思うと、ドアがあき、蒼い顔をした敬三がとびだしてくる。つづいて信治郎が、こら、敬三、待てぇ、待たんかッと叫んでとびだしてくる。聞かばこそ、敬三はいちもくさん、ころがるように階段をとんでいき、風とともに去りぬ。

三男の鳥井道夫に信治郎は洩らす。
「敬三はだんだんヘンコツになりよるデ」
「ヘンコツ」とは大阪弁で、よくも悪しくも、変り者、奇骨、反骨、個性などをさす言葉である。信治郎はよく人をさしてそういったらしい。自分のことをてんで棚にあげている。

昭和25(1950)年 (71歳)
社名広告としてキャッチフレーズ「洋酒の壽屋」を定める。

「サントリーウイスキーオールド」を発売(サントリーHP)。

昭和27(1952)年 (73歳)
4月、大日本果汁株式会社、東京都中央区日本橋に本社を移転。
8月、「ニッカウヰスキー株式会社」に社名を変更。
11月、ニッカウヰスキー、東京都港区麻布(現・六本木ヒルズ)に東京麻布工場(瓶詰)建設。

昭和30(1955)年 (76歳)
東京、大阪を中心として、トリスバー、サントリーバーが続々と誕生。

昭和31(1956)年 (77歳)
4月10日
チェーンバー向けPR誌「洋酒天国」第1号発刊。
昭和30年代前半は洪水的なトリスバーの発生で特徴づけられ、マスコミは「ハイボール文化時代」だとか「トリスバー文化時代」だとか書きたてたが、この第1次ブームでトリスはとうとう屋台のヤキトリ屋やオデン屋にまで浸透してそこに腰をすえてしまった。

昭和33(1958)年 (79歳)
12月23日
東京タワー完成。

昭和34(1959)年 (80歳)
当時ニッカの売り上げは北海道6、内地4の割合だったが、これが丸びんニッキーの発売(昭和31年11月)で一挙に逆転、全国商品にのし上がった。販売金額は昭和29年を100とすると34年は534となり、ニッカの基礎をかためたのである。(ウイスキーと私)

ニッカは健闘したものの、寿屋がウイスキー界の図抜けた巨人だったことは間違いない。

昭和35(1960)年 (81歳)
5月19日
創業60周年記念式典挙行。

昭和36(1961)年 (82歳)
5月30日
鳥井信治郎 会長に、佐治敬三 社長に、鳥井道夫 専務に就任。
鳥井信治郎は佐治敬三を社長に推し、自分は取締役会長となった。ブレンドその他の最高決議に属することについての決定権または拒否権は彼の手に留保されていた。しかし、おおむねは雲雀ヶ丘の自邸の日あたりのよい部屋でコタツに入って、おとなしく孫たちと82歳の日々を遊んでいた。

昭和37(1962)年
2月20日
鳥井信治郎逝去(享年83歳)。
早朝、鳥井信治郎は前年の暮れからひいていた風邪が急性肺炎となって息をひきとった。枕頭では長男吉太郎の妻春子、その長男信一郎、次男の佐治敬三夫妻、三男の鳥井道夫夫妻たちがいた。その夜、お通夜がおこなわれ、翌21日、自邸で密葬があった。24日遺族と会社首脳部とが遺骨を奉じて山崎工場、大阪工場、道明寺工場、松岡ビル(会長室があった)を巡回した。
日本ウイスキー界の巨星墜つ!である。

2月25日
四天王寺本坊において鳥井会長社葬。
喪主は鳥井信一郎。友人総代は池田勇人、高橋達之助、山本為三郎、杉道助、鈴木三郎助。会葬者五千人。

竹鶴政孝は書く。
亡きサントリーの創立者鳥井信治郎さんの先見の明 ~ 赤玉ポートワインの利益をもとに、本格的ウイスキー製造に踏み切られたこと。鳥井さんは、日本のウイスキー業界のため、非常につくされた人であった。(ヒゲと勲章)
あの清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。
そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生は考えられないことはいうまでもない。(ウイスキーと私)

昭和38(1963)年
3月1日
社名を「サントリー株式会社」に変更。
鳥井信治郎の死後1年ののち、「洋酒の寿屋」の名は消滅した。

  鳥井信治郎(1) 鳥井商店の開業
  鳥井信治郎(2) 洋酒の壽屋(戦前編)
  鳥井信治郎(3) 洋酒の壽屋(戦後編)

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