明治6(1873)年1月、山梨県令(県知事)に着任した藤村紫朗(以下、敬称略)は、ワイン産業の将来性に着目し、ぶどう産地の山梨県に相応しい殖産興業策と考え、ワイン醸造を推奨した。
山田有数と詫間憲久の両名によりワイン製造の試みがなされたが、破綻したという。
殖産興業の気運の高まりのなか、甲州勝沼を中心とする地主や豪農たちがワイン醸造会社を設立した。
明治10(1877)年
8月
大日本山梨葡萄酒会社、設立。
ぶどう栽培とワイン醸造を始める。
地元では、祝村葡萄酒醸造会社あるいは単に祝村葡萄酒会社と呼ばれていた。
所在は、山梨県東八代郡祝村(現甲州市勝沼町下岩崎)。
資本金1万4000円。
出資者は、雨宮廣光(社長)、内田作右衛門(副社長)、雨宮彦兵衛、土屋勝右衛門、宮崎市左衛門ら。
10月10日
ワイン製造技術習得のため、高野正誠と土屋助二郎(助次郎と書く資料もある。のちに龍憲と改名)が渡仏。
予定の留学期間は1年。
高野正誠は25歳、氷川神社の宮司で、山梨県議会議員。
土屋龍憲は18歳、会社設立発起人のひとり、土屋勝右衛門の長男であった。
(発起人宮崎市左衛門の子の)宮崎光太郎も強く渡仏を希望したが、彼がいまだ15歳であり、また長男でかつ一人息子であるということで父親が認めなかった。
高野と土屋は、パリ万国博参加準備のため渡仏する前田正名に連れられて、横浜からフランス汽船タイナス号に乗り込んだのである。
高野と土屋に同行し、フランス滞在中も面倒を見たのが、のちの山梨県令前田正名であった。
前田正名 (嘉永3(1850)年 – 大正10(1921)年)
明治期の殖産興業に貢献した人物。
■ 明治2(1869)- 9(1876)年 フランス留学。
■ 明治11(1878)年 パリ万国博覧会事務館長。
■ 明治19(1886)年 国営ワイナリー・播州葡萄園(兵庫県稲美町)の経営を委託される。
■ 明治21(1888)年6月 山梨県令(知事)として赴任、甲州葡萄の普及に努めた。
二人がスエズ運河を通り、ナポリに寄航してマルセイユに到着するまでに45日を要した。
まずパリの小学校に入学してフランス語の研修からスタートした。
やがて二人は前田の紹介で、シャンパーニュ地方のトロワ市に住む農学者兼苗木商のシャーレ・バルテのもとに赴き、さらにピエール・デュポンのもとで栽培と醸造の実地指導を受けた。デュポンは自らぶどう園を経営する蔵元であった。
高野と土屋が下宿した家や、バルデ氏とデュポン氏の経歴、その後の消息も明らかになっている。
二人は、日々学んだ事項を克明にノートに記録した。
この記録の一部は現在もメルシャンの「ワイン博物館」に保存されており、毛筆の細字で、日本語とフランス語を交えつつびっしりと書きこまれたノートには心打たれるものがある。
高野は帰国後「葡萄三説」(*)を著して、それらを紹介している。
(*)明治23(1890)年刊。
ウイスキー留学の竹鶴政孝翁の姿と重なるものがある。
明治人は、このような苦労に耐えながら「近代日本」を造ったのだ。
明治12(1879)年
5月8日
高野と土屋が横浜に帰国。
ワイン醸造を開始。
二人の青年は横浜港に着き、祝村に帰ってきた。
待ちかねていた祝村葡萄酒会社では二人の指導を受けながら、早速醸造がはじめられた。
この時から宮崎光太郎も積極的に参加した。
初年度には早くも150石(約27キロリットル)を醸造した。これがわが国における本格的ワイン醸造のはじまりである。
「葡萄酒醸造開始の地」(勝沼町教育委員会)より。
葡萄酒醸造は、雨宮彦兵衛の建家と酒蔵、さらに日本酒の醸造器具を借りて行われた。
渡仏前に話を戻すと、二人は大日本山梨葡萄酒会社との間で、
「修業期間を1年間とし、これを延長したときはその費用は自己負担で補う」
旨の契約を交わした。契約書が「ワイン博物館」に保存されている。
修業期間は予定を7ヶ月超過し、1年7ヶ月になった。
高野は違約金を返済し、土屋は踏み倒した(笑)とされる。
山梨県工業技術センターHPによると、
片道だけでも50日もかかった百年前である。日本とヨーロッパの距離的な感覚を知らないそのころの祝村の村民は、7ヶ月遅れたことにこだわって、高野、土屋の二青年が得た西欧のブドウ栽培と醸造技術の大きな成果を高く評価できなかったようだ。
とくに年長の高野は、その責任をかぶった。歓迎会どころか謹慎を命ぜられたくらいである。
この秋に始まったぶどう酒生産の会社の名簿から高野正誠の名が消されていた。
「二人の指導を受けながら、早速醸造がはじめられた。」とする三楽50年史とは食い違う。
工業技術センターの記述が正しいならば、高野には何とも酷な話である。
明治13(1880)年
醸造石数を30石(5.4キロリットル)ほどに押える。
12年産ワインの試売を開始。
12年産ワインの売行きはなかなか好調であった。当時ワインといえば輸入物しかなく、高価格であったから、およそ1年ほどの間に100石あまりを売りさばいた。
ところがここで大きな困難が生じてきた。販売したワインが変質し、いわゆる変敗酒が続出したのである。
おりからの不況もあって売行きは止まってしまった。
明治15~18(1882 – 5)年
醸造中止を余儀なくされる。
明治19(1886)年
大日本山梨葡萄酒会社、解散。
大日本山梨葡萄酒会社の醸造所があった雨宮彦兵衛の地所は、現在、更地になっていて、一角に土屋龍憲が建設した煉瓦造り半地下式の龍憲セラー(明治33(1900)年頃の建設。国登録有形文化財)が残されている。
【参考図書等】
■ 三楽50年史 (三楽株式会社社史編纂室、昭和61年5月発行)
■ 山梨県工業技術センターHP
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