サントリー70周年社史を読んでいて、鳥井信治郎(以下、敬称略)のつぎに魅力的なのが、作田耕三(のちの常務取締役)である。
信治郎は、昭和2(1927)年9月1日付で、社長を「主人」または「大将」と呼ぶよう社内通達を出している。長男の吉太郎は副社長であったけれど、「若大将」または「若」と呼ばせたのである。
三井、三菱、住友などの大会社の社長だけが社長であって、壽屋などは大将でいい。会社員やないで、学者やないで、技術者やないで、大阪商人なんやで、というのが信治郎の信念だった。
作田はその壽屋の大番頭だった人物だ。
入社間もないころ、作田の父が死んだ。作田は壽屋の社員には誰一人知らせずに、いっさい隠密裏に葬式をあげようと考えていた。
ところが葬儀場へ行ってみると、作田より早く、壽屋の全社員が集合しているではないか。
作田はつぎの瞬間に目を見はった。信治郎が指揮しているばかりでなく、副社長の吉太郎ともども雑用や力仕事をひきうけて動き廻っていた。
葬儀の時間が近づくと。信治郎は受付に立って会葬者に挨拶していた。
葬儀が終って、寺から家にもどろうというときに、作田の母の乗る自動車の用意がしてなかった。
「お母さんの車をどないするんや」
大声で叫んだかと思うと、信治郎は、もう駆けだしていた。
やがて一台のタクシーが作田の母のまえに着いた。作田の母がいくら遠慮しても信治郎は助手席から降りようとしない。信治郎は、そうやって作田の母を自宅まで、自分で送っていったのである。
葬儀で、もっとも傷心しているのは夫を喪った妻である。
作田耕三は泣いた。心底からの涙が出てきた。作田がこの人と一生を共にしようと決意したのは、その時である。
作田はマルキストで、徳田一球以下、共産党の幹部が家に泊まり込んだこともあったという。
信治郎はそんな作田を片腕として重用する。
「あいつは偏屈や」
信治郎はそういうだけである。
名を捨てて実を取るといっても、まさに極まれりという感がある。大阪商人の真骨頂である。つまり、それだけ作田には社内的な実力があったのである。
戦後、この作田が会社の責任を一人で負って、23日間、警察に拘留される事件が起きた。
作田は自殺するのではないかと思われていた。
差し入れとして、作田は睡眠薬を頼んだ。信治郎は、毎日一粒ずつしか渡さなかった。
「これには弱った」
作田はそう言って笑う。純粋マルキストである作田は留置場なんか屁とも思っていなかった。寝苦しいというだけが辛かったのである。
「わては、会社のためには死なへんで。わてが死をえらぶとしたら、そら日本人民のためや。大将にはそれがわかってへん」
これも戦後の戦後の話になるが、信治郎と作田が大阪の焼野原を歩いていた。
作田が言った。
「これ買占めまひょ。いまやったら安いし、必ず値あがりしよりま」
すると、日頃、ゼニ、ゼニといって血まなこであるはずの信治郎は、ちらりと作田を眺め、
「わてらはウイスキー屋だっせ」
といった。
「不動産屋と違いまっせ」
なんとも奇妙な大将と大番頭である。
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