MENU

山崎蒸溜所(5)。

昭和3(1928)年
12月1日
日英醸造のビール工場を買収、横浜工場とする。
山崎、横浜両工場の工場長兼任を命じられた竹鶴政孝(以下、敬称略)は、住居を鶴見に、次いで鎌倉に移した。

昭和4(1929)年
4月
「新カスケードビール」を製造発売。
10年契約で壽屋に入社した竹鶴政孝が8年目を迎えた昭和5年の秋、鳥井信治郎から、
「吉太郎がもうじき学校卒業やが、どやろ、しばらくあんたはんとこで面倒見てくれへんやろか。一人前に仕事でけるようになるまで、10年間と言わずに居ってもらいたいのやが」
鳥井の長男吉太郎(1908年12月23日生れ)は、神戸の高等商業(現神戸大学)に通っていた。6年の春には卒業の予定である。竹鶴から技術を、妻リタから英会話や欧州事情を授けてほしいという鳥井の頼みだ。
「よろしゅおます」



昭和5(1930)年
5月1日
新カスケードビールにつづいて、「オラガビール」を発売する。

昭和6(1931)年
3月1日
吉太郎が壽屋へ入社。直ちに横浜のビール工場に勤務した。
竹鶴は吉太郎を自宅に預って妻リタに英語の手ほどきをさせており、夏からはリタと吉太郎を伴い半年間の予定で欧州に出向くことになっていた。(信治郎の後継者である)吉太郎に本場のウイスキー蒸溜所や葡萄酒醸造所を案内するのが主目的だ。

10月1日
鳥井吉太郎、欧米における業界視察のため出発。(竹鶴政孝、リタ夫妻同行)

昭和7(1932)年
2月
竹鶴がリタと吉太郎を伴い欧州視察から帰国。
3月15日
鳥井吉太郎、取締役副社長に就任。

昭和8(1933)年
8月23日
鳥井信治郎妻クニ死亡(享年46歳)。

もともと契約は10年の約束であったし、その期限の来た昭和7年に私(竹鶴)は退社したいと申し入れたが、保留されていた。
昭和8年、関東では「オラガビール」の買収の話がもち上がってきた。
それと前後して私のところへは本社からビール工場拡張工事の命令が出た。
しかし基礎工事にかかっている最中にビール工場の売り渡しが決定したのである。
工場を大きくする計画と仕事を日夜続けていた工場長の私にとってショックであったことはいうまでもない。
約束の10年間は働いたし、吉太郎もいまは副社長として立派に活躍している。
私もそろそろ40歳になる。独立しようとかたく決意したのはそのときだった。
鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。
清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。
そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないのはいうまでもない。

昭和9(1934)年
2月1日
ビール事業を分離、譲渡。
3月1日
竹鶴政孝氏退社。

竹鶴は吉太郎を可愛がり、いろりろと面倒を見、世話をした。
鳥井に2度、保留されて、契約期間の10年を過ぎて、足掛け11年間壽屋に在籍した。
竹鶴の退職日が吉太郎の入社日からぴったり3年後というところに、いかにも竹鶴の律儀さが出ていると思う。
竹鶴は壽屋在任の前半を山崎のウイスキー工場、後半を横浜のビール工場に勤務した。
ウイスキーに恋した男には、ウイスキーから引き離された横浜の地はあまりにも寂しかったのは想像に難くない。

昭和15(1940)年
9月23日
取締役副社長、鳥井吉太郎死去(享年33歳)。(満31歳)
11月15日
「サントリーウイスキーオールド製作」発表。

「片腕をもぎとられてしもた。日本の医学はあかん」
信治郎は葬式のときにも怒っていた。
信治郎の吉太郎に対する期待は大きかった。若大将、若、若と社員から親しまれ、副社長として信治郎の片腕であった。壽屋が大阪の老舗、おたなの気風を持たず、比較的早い時期に近代化をとげることができたのは、吉太郎の献策に基づくところが大きかった。やがて壽屋をになう存在となる作田耕三、平井鮮一(ともにのちに常務)等々若手学校出の俊秀の採用にそれがあらわれている。
オールドは信治郎、吉太郎親子がブレンドした製品といわれ、社史は「大東亜戦争勃発前夜で、洋酒類にも統制の手がのびはじめ、さすがの信治郎もオールド発売にふみ切れなかった」と記す(一説には、大阪で若干数が出回ったという)。
吉太郎を亡くした信治郎の悲しみがあまりにも深く、一時はまったく事業意欲を失い、オールド発売が立ち消えになったという話をどこかで読んだことがある。

昭和25(1950)年
「サントリーウイスキーオールド」発売。

  字は、サントリー70周年社史より。
  字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
  字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。

#サントリー

この記事を書いた人