鳥井信治郎(以下、敬称略)の頭のなかに、いつごろからウイスキー製造の野望が芽生えていたのだろうか? (以下は「サントリー70周年社史」より)
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明治32(1899)年 (20歳)
2月1日
鳥井信治郎、大阪市西区靭中通二丁目に鳥井商店を開業し、葡萄酒の製造販売を始める。
明治40(1907)年 (28歳)
4月1日
甘味葡萄酒「赤玉ポートワイン」を製造発売。
明治44(1911)年 (32歳)
2月1日
ヘルメスマークを商標登録。
「ヘルメスウイスキー大角」を製造発売。
明治の末年には、赤玉ポートワインのほかに、ウイスキー、ブランデー、リキュール類の各種洋酒を手がけるようになる。このときのウイスキーが「ヘルメスウイスキー角瓶」である。まだ、イミテーションの段階だった。
大正8(1919)年 (40歳)
9月1日
「トリスウイスキー」を製造発売。
赤玉ポートワインは依然として好調であったが、信治郎は、次の新製品を考えていた。
あるとき、輸入洋酒の樽に、出来の悪い、使いものにならないアルコールを詰めておいたことを思い出した。
ためしにこれを飲んでみると、いい味になっている。偶然、不純なアルコールが貯蔵によってウイスキーになることを知ったのである。
後に、本格ウイスキーに命がけで取りくむようになったそもそもの発想につながってくるのである。
すばしこい信治郎のことだから、この樽にできたウイスキーに、自分の名前をつけて「トリスウイスキー」として発売した。たった一樽だから、すぐに品切れになってしまったが・・・。
11月
「ヘルメスウイスキー特丸」を製造発売。
大正9(1920)年 (41歳)
3月1日
瓶詰ハイボール「トリスウイスタン」を製造発売。
ウイスキー炭酸をちぢめたのが命名の由来である。
これは一部では好評を博したが、売行きがいいとはいえなかった。いくらなんでも発売時期が早すぎたのである。
大正12(1923)年 (44歳)
10月1日
用地を買収し、山崎工場建設準備に着手。
関東大震災のあった大正12年の10月、ついに信治郎は京都郊外山崎の地で、ウイスキー製造への第一歩を踏みだした。
それより前ずいぶん早くから、信治郎の頭のなかにはウイスキー製造の野望が芽生えていた。
明治の末年にはすでにヘルメスウイスキーという一種の混合酒があり、大正に入って例のトリスウイスキーというハプニングがあり、ウイスタンの失敗があった。信治郎は、ずっとウイスキーに関心があり、それが次第に深まっていった。
「やってみなはれ」
彼は自分にむかって呟いたにちがいない。
それは試行錯誤というべきものであり、猪突猛進であった。
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人気商品「赤玉ポートワイン」の稼ぎを山崎蒸溜所に注ぎ込んだ話は有名だ。
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