(スコットランド・スペイサイド地区)ウイスキーに関わって来た人々の話です。スコッチウイスキーへの情熱が伝わってきます。密造の歴史背景が理解できます。
現在ウイスキーとして知られている物が最初に現れたのが19世紀でした。それまでのウイスキーは小作人によって小さな蒸留室で作られていました。
おそらく泥炭でかなり加工されており、よく蒸留されていませんでした。 言ってはいけないかもしれませんが、現代人に17、18世紀のウイスキーを飲ませてみたら「まずい!」と言われます。
1745年はウイスキーの進化において重大な年でした。この年に小さな蒸留室で蒸留を行うことが禁じられるようになりました。 これは半ばジンが水代わりに飲まれていたロンドンでの深刻なアルコール依存症問題を解決するためでした。 つまり、ロンドンでのジンの生産を中止するという意味はスコットランド高地でのウイスキーの生産を止めるという意味と同じくらいありました。 しかし、スコットランド高地ではこの措置が壊滅的な効果をもたらしました。 例えば、スペイサイド南部でやせた土地を耕作していた小作人は質の悪い大麦を栽培していました。 これでは豊かな土地で栽培した大麦ほど収入を得ることはできませんでした。 さあ、どうしますか。少ない収入で我慢しますか。いや、ウイスキーを作って利益を上げようかということになりますね。 このように作物の栽培を維持していました。毎年必ず入ってくる安定している収入源だったわけです。そして、突然なくなりました。これが密輸の増加につながりました。
ウイスキーの密輸は課税の対象になった頃から行われていました。初めて課税の対象になったの1644年でした。 また、国会の統一が起こった1707年から密輸は一部の人にとって政治的な意味も持つようになりました。この外国から課税を押し付ける機関に対して、スコットランド人の独立性を表現するものとなりました。 物品税の委員会はロンドンに拠点があったし、スコットランドでは主にイングランド人によって代表されていました。 それで愛国心のある人にとって、そして後でジャコバイトの人にとって、密輸というのは名誉の問題でした。
長年の課税や悪政によってウイスキーの生産は余儀なく隠れて行われていました。
私の意見では、この時期に蒸留に一番適した場所が見つかったと思います。 例えば、一番いい水源のある、町から離れた谷間が見つかりました。 多分、大麦もどこかに隠す必要があったのかもしれません。 そして、この辺りをよく監視していた収税吏から隠れてキースから密輸業者のところまで銅製単式蒸留器を運ぶ必要もありました。
注 意 : この内容の無断使用は出来ません。
*
#スコットランド蒸留所、風景