神谷傳兵衛ゆかりの浅草神谷バーから、大川(隅田川)を渡り、神谷酒造の本所工場跡まで散策する。
ルートは、地図の左中ほどの五差路・吾妻橋交差点から東に向かって歩き出し、吾妻橋を渡り、アサヒビール本社の横(南側)を通り過ぎて、浅草通りを東に進み、地図右下の吾妻橋交番前交差点を左折して北に上がり、、北十間川に架かる源森橋まで。
出発地点は、地下鉄銀座線の浅草駅上の吾妻橋交差点。
北西角の大正クラシックなビル(大正10年落成)が神谷バー(元のみかはや銘酒店跡)。
裏手に花川戸工場が建っていたが、関東大震災で倒壊した。
雷門を背にして、神谷バーから東方向の吾妻橋を見る。
吾妻橋を渡っり切った左手がアサヒビール本社(墨田区吾妻橋1丁目)。
アサヒビール本社が建つ場所は、旧札幌麦酒東京工場跡である。
ビール会社の合併、分割の流れのなかで、札幌麦酒→大日本麦酒→朝日麦酒(吾妻橋工場)と変遷し、工場移転によりアサヒビール本社となった。
因みにサッポロビール本社のある恵比寿ガーデンプレイス(渋谷区恵比寿4丁目)は、旧日本麦酒恵比寿工場跡。
さて吾妻橋交差点から吾妻橋交番前交差点まで、距離にして500m強。
徒歩で6、7分である。
下は現在の地図。
吾妻橋交番前交差点は、東西に走る浅草通りと南北に走る三つ目通りが交わるところで、地下には都営浅草線の本所吾妻橋駅。
この交差点を左(北方向)に曲がった右手が、目的の旧神谷酒造本所工場の跡地である。
下の戦前の地図①には、南北に走る三つ目通りに面した東側の縦長の土地(吾妻橋3丁目13番地)に、ハチブドー会社と記されている。
さらに古い地図②がある。
一目見て分かることは、
1.旧町名で表記されて、地割りが現在と異なること。
2.南北に走る三つ目通りの道幅が狭く、源森橋の南側でクランクになっていること。
池波正太郎先生の読者は、橋などの要所は敵の急な侵入を防ぐためにクランクにしたり、大火のあとは区画整理して火除け地を造ったりということを歴史小説から学んでいるので、関東大震災のあとに三つ目通りが拡幅されて、周辺の道路も整備し現在の地割りになったことは、容易に推察できるのだ。(笑)
地図②の旧町名
・中ノ郷瓦町の三つ目通りの東側、
・中ノ郷八軒町、
・小梅業平町
を合わせて、地図①の現在の町名吾妻橋3丁目にした。
因みに中ノ郷瓦町は北十間川に面した、現在の吾妻橋1丁目から同3丁目にまたがる細長い町の旧町名である。
さて、これからが本題。
地図①で13番地と記された土地の北側5分の1ほどの区画に、地図②では「神谷葡萄酒会社」と記されていて、住所は旧町名で本所区中ノ郷瓦町19番地(267と注書き。坪数か?)。
社史の住所記載と合致する。
最初に神谷の本所工場が建てられた場所である。
下は、「合同酒精社史」に載る最盛期の本所工場の絵。
左端の倉庫らしい建物は北側で北十間川に接し、細い道路を挟んで南が工場になっている。
本所区中ノ郷瓦町19番地に最初に本所工場(左の煙突が立つ辺り)が建てられ、花川戸工場機能の移転や、事業拡大に伴って南北に拡張された。
その後の町名変更のときに中ノ郷瓦町と中ノ郷八軒町にまたがった区画を現状(本所工場の敷地)に合わせて13番地を割り振ったことが、2枚の古地図と1枚の絵から推察できる。
下の写真は、昭和38年12月、撤去直前の合同酒精吾妻橋洋酒工場(旧神谷酒造本所工場)。
左端の建物には縦書きの「ハチブドー酒」の看板が見える。
工場前の三つ目通りを都電向島線の線路が走る。
現在の写真、車の販売会社になっている。
地図①の13番地と15番地西側が販売会社の敷地になっていて、本所工場が一括して売却されたことが想像できる。
13番地の現在の住所表示は、墨田区吾妻橋3丁目8番地。
更に三つ目通りを北に進み、終点の北十間川に架かる源森橋から望む東京スカイツリー。
実は散策中、ずっと見え隠れしていた。
上の吾妻橋の写真にも、写ってるぜよ!(←なぜ、急に土佐弁?)
はい、証拠写真その2!
#神谷酒造・合同酒精