明治33(1900)年 (傳兵衛44歳)
7月、北海道旭川に酒精工場建設を計画。
11月、日本酒精製造を設立。
「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、
これは、前年の明治32年に輸入アルコールの従来の価格に25パーセントの課税をする関税定率法が施行され、輸入アルコールに対抗できる見込みが立つようになったためであった。
明治35(1902)年 (46歳)
7月、旭川工場の試運転開始。90%以上のアルコール製造に成功。
ところが、明治34年に一連の酒造税改正法(*)が公布施行された。これによって、旭川でようやく作業を開始したばかりの酒精工場は、設備不完全と技術の未熟、さらに原料の馬鈴しょ不足などと重なって苦境に陥り、ついに日本酒精製造は解散となったのである。
(*)明治33年5月の北清事変に端を発した軍費支弁のための増税。
明治36(1903)年 (47歳)
10月、日本酒精製造を解散。
11月1日、神谷酒造合資会社を設立。
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分かりづらいので、酒税との関係で要約すると、
明治32年 輸入アルコールの関税アップ → 国産品の競争力アップ。
明治33年 国産アルコール生産のため旭川工場に着工、日本酒精製造設立。
明治34年 軍費支弁のため、国産品の税率アップ → 国産品の競争力ダウン。
明治35年 旭川工場が竣工 → 不採算。
明治36年 日本酒精製造解散。
「合同酒精社史」より、
日本酒精製造の解散となったが、神谷は、なお初一念を貫徹する鉄の意志を失わず、単独経営も止むを得ずと決意し、神谷酒造合資会社(資本金20万円)を設立し、従来の神谷本所工場を第一工場、旭川工場を第二工場とした。解散した日本酒精製造の株式20万円および未払金、借入金の合計25万3千余円の負債はもちろん自ら無限責任社員として社長になった神谷が継承した。(本社・東京市本所区中之郷瓦町)
神谷酒造は、(旭川工場の)製造に関する設備の足りない部分を補い、作業上にも熟練を加えたので、次第に製造量も多くなった。
原料事情も好転した。北海道の農家に原料種薯を選択し奨励につとめ、また耕作上の改良が行なわれたので、供給豊富となり十分の作業もできた。その上、副業として試みた酒精粕を飼料に与えた養豚がよかった。360頭を飼育したといわれる。
こうして、第二期(明治37年11月~明治38年10月)の決算には、前期の損失金2,486円を控除し、純益金3万1,633円を計上することができたのである。
さて神谷酒造を設立する一方で、花川戸工場およびシャトー・カミヤ(牛久醸造場。明治36年9月竣成)は、神谷の個人経営として残した。
ここに神谷傳兵衛の二大事業は、
■ 花川戸工場(本社)、シャトー・カミヤ = 神谷の個人経営 (ワインの製造)
■ 本所工場(本社)、旭川工場 = 神谷酒造合資会社 (アルコール類の製造)
の形が出来上がったのである。
【参考図書】
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行、非売品)
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
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