台湾総督府は製糖業を振興し、安い廃糖蜜を原料とした安価な台湾製アルコールが洪水のように内地へ流れ込み、内地製アルコールは苦境に立たされた。
大正3年 (内地製) 11,998 石 (台湾製) 13,726 石
大正7年 (内地製) 1,749 石 (台湾製) 67,300 石
「合同酒精社史」より、
さすがの神谷酒造も、一時酒精部門の製造を控えざるを得なくなった。
初代傳兵衛は、「焼酎原料」に馬鈴薯(ジャガイモ)澱粉粕を使用して安価に生産することに思いいたる。
しかし当時の酒造税法では、馬鈴薯、馬鈴薯澱粉、馬鈴薯澱粉粕を使うことは認められていなかった。
大正4(1915)年 (傳兵衛59歳)
「焼酎原料」に馬鈴薯を含めるよう酒造税法の改正運動をはじめる。
大正7(1918)年 (62歳)
4月1日、酒造税法改正。
5月、馬鈴薯、トウモロコシを使い「新式焼酎」の生産開始。
神谷酒造旭川工場に於ける馬鈴薯澱粉粕の利用を倣って、北海道にも4社が「新式焼酎」の製造を開始する。
すなわち、
■ 大正8年1月設立の名寄町・東洋酒精醸造、
■ 同年2月設立の士別町・北海道酒類、
■ 大正10年2月設立の倶知安町・北海酒精の3社、
および大正11年函館七飯村における丸善菅谷の焼酎工場がこれである。
第1次大戦後の(大正9年からの経済)恐慌は深刻であった。
北海道とて例外ではない。
そして「タイミングのわるさ」の見本のように、(道内の焼酎工場の)いずれも経済恐慌の荒波を被むるのである。
この深刻な恐慌に抗して、国税局、当時の札幌税務監督局と資金を融資していた北海道拓殖銀行が仲立ちして、東洋酒精醸造、北海道酒類、北海酒精の3社合併案が策定された。
大正12(1923)年9月1日、関東大震災で、浅草区花川戸町の神谷傳兵衛本店の建物、工場と、神谷酒造本所工場が罹災した。
この間、札幌税務監督局および拓銀によって行なわれた調査の結果、将来の道内焼酎業界安定成長のためには、震災で苦境に立っている神谷酒造の旭川工場も参加させては、という案が生まれ、それぞれ打診された。
二代神谷傳兵衛としては好都合であった。どうしても(花川戸工場と本所工場の)整理を終えなければならない。局長と頭取にお任せする、ということになったのである。
その評価は、神谷酒造(旭川工場)88万円、東洋酒精醸造10万円、北海道酒類1万円、北海酒精6万円、計105万円であった。
新会社設立の手続としては、神谷酒造を母体に東洋酒精醸造、北海道酒類、北海酒精の3社を吸収合併することとし、本社を旭川に移し、社長には神谷健一郎(初代傳兵衛の兄桂助の長男)が就任した。
上の写真の撮影年は不明だが、こちらの2枚目の写真、昭和初(1926)年に撮影された蒸溜棟(通称「レンガ棟」)と同じ日に撮影されたではないかと、根拠はないけれど想像している。
大正13(1924)年
10月30日、合同酒精株式会社を設立。本店・旭川市宮下通20丁目1995番地。
大正14(1925)年
7月15日、神谷健一郎辞任(以降昭和4年まで専務制をしく)。
二代神谷傳兵衛は、合同酒精の株式を売却し、関東大震災で罹災した本所工場の再建に充てたのであった。
【参考図書】
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行、非売品)
#神谷酒造・合同酒精