MENU

神谷傳兵衛(16) 傳蔵、フランスへワイン留学。

「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、
傳兵衛は、横浜のフレッレ商会での洋酒製造法修業時代から、日本人の飲むぶどう酒は日本人の手で造り出さなければならない、でき得れば自分がその事業を起したい、と考えていた。まもなく花川戸町に輸入ぶどう酒の再製(*)事業(蜂印香竄葡萄酒)を開始してからも、この考えには変りはなかった。むしろ輸入ぶどう酒の再製事業は暫定的なもので、やがてぶどう園を設け、ぶどう栽培から国産のワイン製造まで一貫してできる一大事業を起すまでの資本蓄積ための事業、と考えていた。
(*)再製酒は、「混成酒。蒸留酒や醸造酒に、糖分や果実などを加えた酒」のことで、当時の酒造税則にあった言葉。

花川戸町での独立自営のにごり酒や洋酒の一杯売、さらに輸入ぶどう酒の再製およびアルコールの卸売といった事業はいずれも順調に伸び、開業してから12年目でぶどう園解説に要する資金は一応見込みが立った。このうえは、ぶどう栽培とワイン製造法を心得た技術者の獲得が必要であった。
傳兵衛がはやくから考えていたぶどう栽培事業は、国内では明治初期から開始されていたが、気象条件の違いや病虫害等のためにいずれも成功を見ないでいた。当時はフランス種のぶどう栽培は不可能に近い、と考えられていたのである。
傳兵衛は、フランス種のぶどう樹が育たないのは、まだ基本的に研究が不足しているのではないか、それにはどうしてもフランスへ適当な人を派遣し、その技術を実地に習得させねばならない、という考えに到達したのである。



明治27(1894)年 (傳兵衛38歳)
9月21日、山形市の小林二八の二男傳蔵を養嗣子とする。
9月24日、傳蔵(数え年25歳)、ワイン醸造法習得のためフランスへ出発。

誠子との結婚式が済んだ3日後、神谷傳蔵はフランスに向けて出発した。
傳蔵の派遣先は、フランスのボルドーであった。傳蔵は出発してから約2ヶ月後の11月に、地中海沿岸の港町マルセイユに上陸し、そこからボルドー市(当時は府)を経て、デュボワ商会カルボンブラン村醸造場に入った。傳蔵は、ここで園丁となってぶどう栽培の方法を究めたり、あるいは職工となって器械の操作や応用、または醸造の仕方等を会得した。研修派遣の期間は3ヵ年であったが、精力的な研修によって見事に修了証を受け、帰朝することができた。

明治30(1897)年 (41歳)
1月12日、養嗣子傳蔵フランスより帰国。

帰朝に際しては、多数の参考書、醸造用具、土壌サンプルをはじめ、ワイン醸造に必要なものすべてを持ち帰った。ここにぶどう園開設の基礎的準備がすべて整ったのである。

【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)

#神谷酒造・合同酒精

この記事を書いた人

前の記事
次の記事