明治15(1882)年 (傳兵衛26歳)
深川区常磐町高木政吉娘サダを妻に迎える。
明治16(1883)年 (27歳)
7月5日、妻サダ死去。
8月1日、長男松太郎死去。
12月、下谷区七軒町町田仙助娘チヨを妻に迎える。
明治21(1888)年 (32歳)
3月3日、母イシ死去。
明治24(1891)年 (35歳)
9月4日、兄桂助の娘誠子を養女に迎える。
明治27(1894)年 (38歳)
9月21日、山形市の小林二八の二男傳蔵を養嗣子とする。
「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、一部を引用)
傳兵衛が最初に妻を迎えたのは、明治14年であった。花川戸町の借家で輸入ぶどう酒の再製に熱中しているころであった。連日昼夜兼行で醸造がまに目を注ぎ、寝室にも入らないときであった。このため、某家から迎えた妻は「妻の存在も認めない」と憤慨し、黙って実家に帰りそのことを両親に訴えた。実家の父も「きらわれたなら別れてしまい」とすぐさまに傳兵衛宅を訪れて離縁を申し出た。傳兵衛は、妻に対して気の毒に思ったが、今ようやく開始したばかりの事業をおろそかにするわけにはいかない、といった信念から、即座にこれを受け入れたのである。
再婚は翌年である。縁あって深川区常磐町高木政吉娘サダを迎えた。
夫婦仲はよく、他人もうらやむほどであったが、サダは、長男松太郎を産むと産後の経過が悪く、明治16年7月5日に死去した。続いて同年の8月1日、長男の松太郎も母のあとを追った。傳兵衛の独立自営の出発は実に輝かしいものであったが、反面、家庭的には恵まれない生活であった。
妻や長男の供養が過ぎるとふたたび縁談が持ち込まれた。同年12月に下谷区七軒町町田仙助娘チヨを迎えて妻とした。この夫婦仲もきわめてよかったが、問題は結婚後8年を経過しても子が生まれなかったことであった。将来とも子を挙げる見込みはあるまいと思うと、傳兵衛は真剣に相続者問題を考えた。そこで兄の桂助長女の誠子に目をつけ、兄の快諾を得て養女とし、明治24年9月4日、正式に入籍手続きを行なった。
つぎは、誠子に配する養嗣子を探すことであった。やがて、傳兵衛の目にかなったのが、日本橋区蛎殻町2丁目17番地に住む市村金兵衛の店員小林傳蔵であった。傳蔵は山形市旅籠町5062番地の小林二八次男で、上京後、働きながら神田の芳林塾を卒業した好青年であった。蛎殻町付近では、働き者で研究心の強い実直な店員として評判の男であった。傳兵衛は、事業を継承し新たな自分の志を遂げるためには傳蔵以外にはないと認め、傳蔵の両親および市村金兵衛の了承を得て、明治27年9月21日、養嗣として正式に入籍し誠子に配した。ここに傳兵衛の相続者が確定した。ときに、傳兵衛は38歳、傳蔵は24歳、誠子は17歳であった。
【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
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