「オーシャンの系譜」の第2回目に、経済産業省「近代化産業遺産群33」(65ページ)を引用し、そのなかで桂二郎(以下、敬称略)について一文を紹介した。
以下、引用。
開拓使葡萄酒醸造所(*)は山梨県立葡萄酒醸造所に勤務した桂二郎(桂小五郎の弟で、後の日本麦酒醸造会社第3代社長)に1886年に払い下げられ、大正期まで操業を続けた。
(*)政府による官営事業として、1876年に現在の北海道札幌市に開設された。
これについてお読みいただいた方から、
「桂二郎は、桂小五郎(木戸孝允)の弟ではなく、内閣総理大臣桂太郎の弟です」
という、たいへん貴重なご指摘を賜った。
「サッポロビール120年史」(平成8年3月10日発行)には、
桂二郎は、長州藩の大物で当時は陸軍次官を務め、のちに内閣総理大臣になった桂太郎の弟である。桂兄弟は明治8(1875)年、一緒にドイツに留学し、二郎はブドウ栽培とブドウ酒醸造法をほぼ3年半の間勉強した。帰国すると勧農局員としてブドウ栽培の指導に当たった。16年には北海道事業管理局勤務となり、開拓使が残した札幌葡萄酒醸造所の管理を委託されたが、20年にはブドウ園とともにこの払下げを受け、花菱葡萄酒醸造場と称して経営者となった。
桂二郎は、大日本山梨葡萄酒会社の高野正誠、土屋助二郎のフランス葡萄酒留学に先立つ2年前に、ドイツへ留学した葡萄酒造りの先達のひとりであった。
兄桂太郎は、第11・13・15代内閣総理大臣で、日露戦争において日本を勝利に導いた宰相。現拓殖大学の創立者で、初代校長でもある。
「大日本麦酒株式会社30年史」(昭和11年3月26日発行)には、
当社(**)は仮事務所を京橋区銀座2丁目14番地に設け明治20(1887)年9月に会社を創立し、社長桂二郎、理事益森英亮、理事兼支配人江夏泰輔、取締役木村正幹、取締役堀基、取締役仙波太郎左衛門の諸氏が役員に就任した。
(**)ここでいう当社は日本麦酒醸造のこと。
桂二郎について、30年史の内容と冒頭の日本麦酒醸造第3代社長は矛盾しているが、設立後9ヶ月の間に、社長が3人(鎌田増蔵→木村荘平→桂二郎)、本店所在地が3ヶ所、変わったというのが真相である。
「サッポロビール120年史」には、
明治20年(1877)前後はわが国ビール産業史上一つの転機であった。18年7月にはジャパン・ブルワリー・カンパニー(*)、20年には日本麦酒醸造会社(**)、札幌麦酒会社、そして22年には大阪麦酒会社(***)というように、本格的な会社組織のビール会社が相ついで設立された。
日本麦酒醸造設立の経緯をたどるとき、ほぼ同じ時期に設立されたほかの3社と著しく異なる点は、設立発起人中に、資力と名声を兼ね備えた一流資本家が参加していなかったことである。これが、同社の設立期に頻繁な社長交代や役員の交代を招く遠因となった。
(*)のちのキリンビール。
(**)エビスビールを販売。
(***)のちのアサヒビール。
日本麦酒醸造の経営は、第3代社長桂二郎のもとでようやく安定に向かった。明治21年6月に就任した桂は、長州閥の雄であった兄太郎の影響力も利用して、崩壊に瀕していた同社株主の安定化に全力をあげたものと思われる。
日本麦酒醸造へ、三井家および三井物産が資本参加する。
明治39(1906)年、日本麦酒(日本麦酒醸造から改称)、札幌麦酒、大阪麦酒の3社が合併して、大日本麦酒が誕生。
昭和24(1949)年、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の令で、朝日麦酒(現アサヒビール)と日本麦酒(サッポロビール)に分割された。
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