オーシャンはひとまず置いて、大黒葡萄酒と兄弟会社で、のちにメルシャン勝沼ワイナリーとなる日清醸造の話である。
昭和18(1943)年
松本三良(さぶろう)(以下、敬称略)の弟、松本五郎が大阪で日本連抽研究所を創設。
(大黒葡萄酒創業者)初代宮崎光太郎 -(娘婿)松本三良 -(息子)二代目宮崎光太郎
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(弟)松本五郎
「三楽50年史」より、
連抽というのは、連続抽出の略称である。当研究所の場合には、ぶどうから酒石酸を連続に抽出するもので、この酒石酸から音波探知機に用いるロッセル塩の製造を行うことを目的とするものであった。
この研究、すなわち「連続抽出機ニヨル酒石酸塩ノ製造」に対して、当時の内閣総理大臣東条英機名で10万円の研究補助費が交付され、これを資金としてその製品化のために日本連抽株式会社が設立された。
音波探知機は、潜水艦に搭載する装置。
松本五郎は、酒石酸塩の連続抽出機の発明者であった。
昭和19(1944)年
松本三良が日本連抽を設立、社長就任。
大黒葡萄酒(宮光園)の隣地に、ロッセル塩工場(のちの「メルシャン勝沼ワイナリー」)を建設。
ところが昭和19年といえばすでに戦争末期であり、翌年には終戦となって酒石酸塩の生産も中止されることになった。
昭和20(1945)年
終戦。
日清製油(現・日清オイリオ)の山梨工場としてブドウ酒の生産を開始。
終戦後は、日清製油の取締役に日清製油社長松下外次郎が参加していた関係から、同社がこれを買収して山梨工場としてブドウ酒の生産を開始した。
昭和24(1949)年
日清製油から独立、日清醸造に社名変更。
甘味葡萄酒ではない「本格ワイン」の製造を開始。
「メルシャン」ブランドが登場。
ブドウ酒生産の発展を期し、さらにはブランデー等の生産も目指して日清製油から独立、日清醸造が発足した。資本金は750万円で50%を日清製油が出資、残り50%を主としてぶどう生産者が出資した。
大黒葡萄酒と日清醸造の商品は重複する。
一時は合併も検討されたようだが、この頃までには大黒葡萄酒が日清醸造の経営から手を引いたと考えられる。
独立後の日清醸造は、本格ワイン(当時はテーブル・ワイン)の製造を目指した。もちろん当時は、一般消費者にはほとんど売れなかったので、水あめ、グレープジュース、焼酎の水わり用ジュース、ポートワイン用原酒等々のいわば副業で経営を支えつつ、他方で日清製油の販売網を利用しながら、種類問屋、ホテル、レストラン等々への売込みを図った。しかしながら、外国産ワインの輸入が行われるようになったこともあって、経営は必ずしも順調でなく、昭和26年からは赤字経営が続いた。
このような赤字経営は昭和29年頃まで続き、そこで古谷武徳が経営を引継いだのであった。
昭和30(1955)年
ワイン・ブランドを「メルシャン」に統一。
帝国ホテルや三越百貨店などに販路を確保。
古谷らは思いきった企業内合理化を実施するとともに、対外的には銘柄をメルシャンに統一して市場開拓に努めた。
由来は、
メルシャン=Merci+an=常に感謝の気持ちを持ち続ける人。
こうして昭和30年には若干ながらも黒字を計上し、その後は帝国ホテル、三越などへの販路も確保されるなど、しだいに販路を拡げていった。
古谷武徳略歴。
大正4年 日清製油に入社。
昭和21年 同社監査役。
昭和24年 日清醸造監査役に就任。
昭和32年 同社社長。
昭和36(1961)年
2月25日
古谷武徳、三楽酒造取締役に就任。
5月1日
三楽酒造が日清醸造を買収。
当時の三楽酒造社長鈴木三千代は、次のように書く。
ある日、私にブドウ酒の会社を引きうけ、めんどうをみないか・・・という話がもちこまれた。ブドウ酒、つまりワイン。それも当時の一般が考えていた甘いものでなく、いわゆる本格タイプである。周囲にもそんなものを飲んでいる人は、まず居なかった。
一方、海外に目を移すと、これはもう、すごく飲まれている。
当時のわが国は、戦後の復興がようやく軌道に乗り、生活洋風化の兆しもうかがえるような時代になっていた。これだけ世界で売れるものが、日本で売れないわけはなかろう。
ひとつ自分の手で、日本にワインの時代を拓いてみようか。
このとき、ワインの将来性に自分の半生をかける決心をつけ、それは、事業家のこころとも、執念ともいえる決断だった。
昭和39(1964)年
2月28日
古谷武徳、三楽酒造取締役を退任。
【参考図書】
■ 三楽50年史 (三楽株式会社社史編纂室、昭和61年5月発行)
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