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オーシャンの系譜(15) 大黒葡萄酒 軽井沢蒸溜所。

「ある洋酒作りのひとこま」より。
立地条件も周囲の環境も良くない塩尻の地で、姑息なウイスキー造りを継続することは、将来の会社の発展上から見ても好ましくないと思っていた。幸い大黒葡萄酒には、昭和14(1939)年に設立した山紫水明で自然条件に恵まれた軽井沢農場があった。ブドウ仕込時期には3人(著者、浅井氏。残りのひとりは不明)とも出張していたので、内々候補地として調査していた。浅間山の雪どけの伏流水は豊富で、試験結果も申し分なく、農場敷地が広大で将来の拡張性も十分なので、私たちは確信を持って、調査結果を添え、工場長を通して本社に移転を具申した。しかし、本社からも試験研究室からもなんの反応もないまま、月日は次第に経過していった。理由はともかく、報告書は宙に迷っていたのである。私ども3人が意を決して本社担当役員に直訴したところ、軽井沢ディスティラリーの建設が旬日のうちに本社で認可された。

移転決定と同時に、製造免許の移転と、当時甘味ブドウ酒用のブドウ栽培畑であった軽井沢農場の一部を醸造予定地として整地に着手した。醸造棟の建物設計は、塩尻経験者の私ども3人が東京試験研究室の人達の意見を参考にして立案した。当初の構想図は下のようであった。

軽井沢ディスティラリー計画配置図(1955年:昭和30年)



醸造棟の構造は当時流行のブロック建築であった。工事は現地の建築業者に依頼し、昼夜兼行で安価にできた。苦労もあったし、不備な点も多々あるが、私と浅井さんも建築に従事したため、私どもが建てたという誇りと、愛着を常に持っていた。醸造設備は塩尻時代の不備な点を改善し、必要なものは新規に製作した。
それらは、
ローラー式麦芽粉砕機
糖化槽
ロイター濾過層
エポキシ樹脂コーティングの開放コンクリート槽8基
ポットスチル4基 (2.5~4kl)
であった。
醸造の開始は、昭和31(1956)年2月中旬であったが、1月末からブドウ酒醸造棟でブドウ酒発酵木桶を利用して、試験醸造としてモルト原酒4kl程を製造し、本格開始に備えた。

先発ウイスキー会社の使用原料麦芽は、購入したビール大麦を日本麦芽株式会社陣田製麦会社に委託したものと、一部自社製麦したものだった。私どもは後発会社として製麦を委託したが、ピート燻蒸麦芽によるモルト原酒の特徴ある品質の確立と製麦技術の習得を目的に、昭和32年より毎年製麦会社に出張し、独自の製麦方法も検討した。

ビール大麦とは、二条大麦のこと。
この文章から、昭和30年代当時、日本にも製麦業者(モルトスター)が存在したことが知れて興味深い。

昭和30年に作られた軽井沢ディスティラリー計画配置図
現在、蒸溜所はほぼ図面通りに残っている。
ただし北側の1棟(図面上)を除いて。
その建物製麦場には、(昭和31年建築計画)の注書きがされている。

当時は外国産麦芽の輸入は許可されていなかったので、将来の麦芽の供給と製麦加工代も考え、二回程製麦場の建築を計画している。第一回は昭和31(1956)年6月に日本ビール目黒工場の旧設備トロンメル型式を譲り受けての計画、第二回は昭和34年、日本麦芽方式のカステン式設備と、テンネ式設備の並立計画である。しかし昭和33年、国産ビール麦の買い付け数量に応じた割当て数量の外国産麦芽の輸入自由化になり、次いで国産ビール大麦栽培の減少に伴って外国産麦芽は完全自由化になった。規制緩和後、ウイスキーメーカーとして後発のオーシャンは、ビール麦の国内産地も確定していなかったので、他社にさきがけていち早くスコットランド産麦芽を輸入して成果をあげたのである。当時、製麦設備計画を見送ったのは賢明であった。

軽井沢蒸溜所での原酒製造は、昭和34(1959)年11月からの製造設備の改善により品質を極度に向上させることができた。原料麦芽も昭和36年頃より輸入割当て量が緩和されたので国産麦芽との比率も50%となり、かつスコッチ・ウイスキーに関する文献も容易に入手できるようになったので技術面も改善した。
モルト原酒の品質が向上して安定生産期に入ったのは昭和35年頃からである。









(THE GRENLIVETの樽)



(こちらは、GRENGRANT)









無残で悲しい樽の末路である。

【参考図書】
■ ある洋酒造りのひとこま (関根彰著。平成16年6月24日発行、たる出版刊)

#オーシャン

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