MENU

鳥井信治郎(2) 洋酒の壽屋(戦前編)。

社史「やってみなはれ・みとくんなはれ サントリーの70年」より。
字は、I.山口瞳著(戦前編「青雲の志について」)から、
字は、II.資料編から引用。

明治32(1899)年 (信治郎 満20歳。以下、敬称略)
2月1日
鳥井信治郎、大阪市西区靭中通二丁目に鳥井商店を開業し、葡萄酒の製造販売を始める。
9月9日
父鳥井忠兵衛、死去。

鳥井商店の成立について、
兄の鳥井喜蔵(31歳)が鳥井商店を開業 → 父忠兵衛が死去 → 信治郎が実家に戻り兄を手伝う、という推測は前回書いた。

明治33(1900)年 (21歳)
店舗を大阪市西区北堀江通2丁目に移し、次いで西区西長堀北通2丁目和島橋詰に移転。

明治35(1902)年 (23歳)
事業拡張のため、店舗を大阪市南区安堂寺橋通2丁目に移転。

明治39(1906)年 (27歳)
9月1日
店名を壽屋洋酒店と改める。

西川定義、共同経営者となる。
「向獅子印甘味葡萄酒」を製造販売。

明治40(1907)年 (28歳)
4月1日
甘味葡萄酒「赤玉ポートワイン」を製造発売。



明治41(1908)年 (29歳)
12月4日
鳥井信治郎、小崎一昌長女クニと結婚。
12月23日
長男吉太郎誕生。

明治45(1912)年 (33歳)
12月4日
共同経営者、西川定義と別れ、大阪市東区住吉町52番地に店舗を移し独立。
東区(現・中央区)住吉町52番地の、つまり、サントリー株式会社の本籍地は、ぜひ、この目で見たい場所のひとつだった。これが事実上の独立の地であり、創業の地であり、サントリーの第一歩を印した土地であるからだ。
サントリーの本籍地は、いま、社宅になっていて、社員の誰かが住んでいる。私には、そこから大将と、吉太郎を背負ったクニ夫人が出てくるのではないかと思われた。
ここは本家本元の発祥の地なのである。

大正2(1913)年 (34歳)
2月
組織を法人に改め、合名会社壽屋洋酒店(資本金9千円)となる。

大正3(1914)年 (35歳)
2月1日
組織を法人に改め、合資会社壽屋洋酒店とする。代表無限責任社員、鳥井信治郎(資本金10万円)。

大正8(1919)年 (40歳)
9月1日
トリスウイスキー」を製造販売。
11月1日
次男敬三誕生。

大正10(1921)年 (42歳)
12月1日
株式会社壽屋を設立(資本金百万円)。
代表取締役社長に鳥井信治郎、取締役に鳥井喜蔵ほか1名、監査役1名が就任。

サントリーHPは、
創業  1899年
設立  1921年12月1日
と書く。

大正11(1922)年 (43歳)
6月3日
壽屋を商標登録。

大正12(1923)年 (44歳)
1月22日
三男道夫誕生。
6月
竹鶴政孝入社。
関東大震災のあった大正12年10月、ついに信治郎は、京都郊外山崎の地でウイスキー製造への第一歩を踏みだした。

大正13(1924)年 (45歳)
11月11日
山崎工場竣工。



竣工時の山崎工場乾燥塔の貴重な写真である。



パゴダ屋根とボイラー煙突の位置関係から見て、写真は図の右位置から撮影。左奥道路の先が現在のJR踏切。

昭和2年(1927)年 (48歳)
9月1日
社長を「主人」または「大将」と呼ぶよう社内に通達。
丁稚からたたきあげたような社員という言葉があるが、サントリーには、実際に、丁稚あがりの社員がいるのである。その人たちが、ひとつの中核をつくっている。
大学卒もいるし、研究室から来た者もいるし、中卒もいるし、高卒もいる。種々雑多である。お世辞にも、毛なみのいい会社ということはできない。
すでにお気づきのことと思うが、サントリーの社員は、鳥井信治郎のことを社長とは呼ばない。「大将」である。
三井、三菱、住友などの大会社の社長だけが社長であって、壽屋など大将でいい。会社員やないで、学者やないで、大阪商人なんやで、というのが信治郎の信念だった。
絶対に社長と呼ぶな、大将と呼べ。信治郎は、そういう命令を出したのである。
丁稚というのは見習社員のことで、住みこみで、夜は夜学に通う。
「勉強せい。学問せい」
信治郎はそう言うだけだった。

昭和4年(1929)年 (50歳)
4月1日
わが国で最初の本格ウイスキー「サントリーウイスキー白札」を発売。
売れなかった。

昭和6年(1931)年 (52歳)
3月1日
鳥井吉太郎入社。
サントリーウイスキーは、昭和6年には仕込みを行わなかったのである。出来なかったのである。金が底をついたのである。従ってサントリーの酒庫には「1931年」という年号を記した樽が無いのである。

昭和7(1932)年 (53歳)
3月15日
鳥井吉太郎、取締役副社長に就任。

昭和8(1933)年 (54歳)
8月23日
妻クニ死去(享年46歳)。
急性の伝染病である。あと4年か5年生きていてくれたなら、サントリーの立派な成功を見られたわけである。昭和8年はドン底時代だった。長男の吉太郎を背負って瓶詰を手伝っていたクニが死んでしまった。

昭和9(1934)年 (55歳)
3月1日
竹鶴政孝氏退社。

昭和12(1937)年 (58歳)
「サントリーウイスキー12年もの(亀甲型)」(角瓶)を発売。

この頃から寿屋のウイスキーはようやく軌道に乗り始める。
昭和12年、13年に、次第に、サントリーは日本人の舌に浸透していった。14年、15年には、売れて売れて困るという事態を招来する。
壽屋の社員には、年間のボーナスが40ヶ月も50ヶ月も支給された。一桁違っているのではないかということで、経理課へ戻しに行った男がいるくらいだった。

昭和15(1940)年 (61歳)
9月23日
取締役副社長、鳥井吉太郎死去(享年33歳)。(満31歳)
「片腕もぎとられてしもた。日本の医学はあかん」
信治郎は葬儀のときも怒っていた。
それから2ヶ月も経たないうちに、兄の喜蔵が死んだ。

11月15日
兄の鳥井喜蔵死去(享年72歳)。
「サントリーウイスキーオールド製作」発表。

ひとりでやっていかなければならないと思ったとき、信治郎は還暦をこえていた。
11月、サントリーウイスキーオールドを発売。

オールドの発売年について、サントリーHPでは、
完成は、昭和15(1940)年11月1日
発売は、昭和25(1950)年
としている。
大東亜戦争勃発前夜でさすがの信治郎も「オールド」発売にふみ切れなかった、吉太郎の死を悲しみ親子でブレンドした製品の発売を断念した、阪神地区で若干数が出回ったなど、諸説があるようだ。

またこの年の10月、「ニッカウヰスキー」が発売された。

昭和16(1941)年 (62歳)
7月1日
統制会社大日本酒類販売会社設立され、雑酒配給自治統制が実施。
12月8日
対米英宣戦布告、日本軍ハワイ真珠湾を奇襲攻撃。

  鳥井信治郎(1) 鳥井商店の開業
  鳥井信治郎(2) 洋酒の壽屋(戦前編)
  鳥井信治郎(3) 洋酒の壽屋(戦後編)

#サントリー

この記事を書いた人