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鳥井信治郎(1) 鳥井商店の開業。

壽屋(現サントリー)創業者・鳥井信治郎(以下、敬称略)の話である。



一次資料が少なく、手元には社史の「やってみなはれ・みとくんなはれ サントリーの70年」のみ。
字は、I.山口瞳著(戦前編「青雲の志について」)から、
字は、II.資料編から引用。

明治12(1879)年
1月30日
鳥井信治郎、両替商鳥井忠兵衛の二男として誕生(大阪市東区釣鐘町)。
母こま、兄喜蔵(信治郎より11歳年上)。男ふたり、女ふたりの末っ子である。

明治13(1880) (信治郎満1歳)
4月
神谷傅兵衛(安政3(1856)年、三河国幡豆郡松木村(現在の愛知県幡豆郡一色町)生まれ)が、東京浅草に「みかはや銘酒店」の屋号で酒の一杯売を開業。
明治15(1882)年、速成ブランデー(現在のデンキブラン)の製造販売。
明治45(1912)4月10日、屋号を「神谷バー」に改める。

明治17(1884)年 (5歳)
鹿鳴館に仮装舞踏会盛行し、婦人の洋装盛んになる。

明治18(1885)年 (6歳)
12月22日、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。

明治20(1887)年 (8歳)
4月1日
鳥井信治郎、北大江小学校(大阪市東区島町)に入学。
その小学校へは一年通っただけで、翌年には高等小学校に入学している。成績はよいが腕白者でもあったようだ。

明治21(1888)年 (9歳)
大阪電燈(関西電力の前身)設立。

明治22(1889)年 (10歳)
東海道本線(新橋-神戸間)全通。

明治23(1890)年 (11歳)
4月1日
鳥井信治郎、大阪商業学校へ入学。
四年制の高等小学校にも二年しか在籍していない。北区梅田の大阪商業学校に進んだ。当時の学制は、まだアイマイなものであって、信治郎の成績がずば抜けていたためにこうなったものかどうかという証拠はない。ただ、後年の信治郎から推察して、才気煥発の腕白小僧ではあったろうと思われる。

鳥井忠兵衛、両替商を廃業し米穀商を開業。

明治25(1892)年 (13歳)
鳥井信治郎、薬種問屋小西儀助商店(大阪市東区道修町)に入店。
13歳で、道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公する。「丁稚一名を求む」という小西儀助商店の新聞広告が残っているから、欠員があり、その一名が信治郎であったに違いない。
忠兵衛が信治郎を小西儀助商店に出したのは、次のような背景がある。
両替商から米屋に転業すると、副業としてサイダーやラムネの販売も行っていた。ときには、イミテーション・ウイスキーをうることもあった。このウイスキーは、道修町周辺の薬種問屋で調合されていた。
長男の喜蔵が家業の米屋を継ぐ。次男の信治郎に副業のほうをやらせてみようと考えたようだ。
小西儀助商店(注)は、現存する大きな薬種問屋である。漢方が主であるが、舶来の薬も輸入するし、葡萄酒、ブランデー、ウイスキーも扱うという、当時としてはきわめてハイカラな店であった。
薬種問屋で調合の技術を学んだ。この少年を高給で迎えたいという同業者が何人か訪ねてきたというのだから、その才気と調合の技術は早くも近隣にきこえていたのだろう。
小西儀助商店に三年間奉公した。その間によく先輩と喧嘩したらしい。これは信治郎の独立心とも関係のあることだろう。

 (注)現 コニシ株式会社(重要文化財の旧小西家住宅

明治27(1894)年 (15歳)
6月20日、竹鶴政孝誕生。

明治28(1895)年 (16歳)
絵具染料問屋小西勘之助商店(大阪市東区博労町)に移る。

明治29(1896)年 (17歳)
兄鳥井喜蔵、鳥井家の家督を相続し、家業の米穀商を継ぐ。
兄の喜蔵は、混成洋酒の製造・販売も行うようになっていた。原酒を小西儀助商店その他から樽で仕入れ、瓶詰にして小売するという程度のことだった。

明治31(1898)年 (19歳)
小西勘之助商店を辞す。

明治32(1899)年 (20歳)
2月1日
鳥井信治郎、大阪市西区靭中通二丁目に鳥井商店を開業し、葡萄酒の製造販売を始める。
9月9日
父鳥井忠兵衛、死去。
本格的に葡萄酒をつくるようになったのは、明治33年、父忠兵衛の死をきっかけに、信治郎が家へ帰ってきてからである。

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昭和11(1936)年 (57歳)
12月28日
鳥井喜蔵取締役退任。

昭和15(1940)年 (61歳)
11月15日
元鳥井喜蔵取締役死去(享年72歳)。
兄の喜蔵が死んだ。鳥井商店を起して、生涯を壽屋の製品の販売に捧げた人である。




ここで年表(字)と伝記(字)の矛盾に気付く。

年表は、
信治郎が実家に戻る → 信治郎が鳥井商店を開業 → 父忠兵衛が死去。
対して伝記は、
喜蔵が鳥井商店を開業 → 父忠兵衛が死去 → 信治郎が実家に戻る。

想像するに、伝記の方が分がいい。
実家に戻った信治郎が父の存命中に、家督を継いだ11歳年上の長兄を差し置いて、「実家」で鳥井商店を開業した(家を出て独立することはあっても)とは考え難い。

家督を継いだ長兄喜蔵は、父とふたりで店を切り盛りしていた。今でもよくあることだ。
喜蔵は31歳のときに鳥井商店(「米穀商」および「洋酒の製造・販売」)を起す。
父忠兵衛の死去(享年60歳と推定される)で人手がなくなったので、これを契機に20歳の弟信治郎を呼び戻して、兄弟ふたりで店を切り盛りする。
信治郎は調合の技術を生かして手始めに葡萄酒を販売、才気煥発に洋酒事業の売り上げを伸ばして、米穀商事業は自然廃業した。

といったところではないか。

  鳥井信治郎(1) 鳥井商店の開業
  鳥井信治郎(2) 洋酒の壽屋(戦前編)
  鳥井信治郎(3) 洋酒の壽屋(戦後編)

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