「ある洋酒作りのひとこま」より。
私は昭和27(1952)年3月に大黒葡萄酒へ入社し、試験室配属になった。
入社時、東京工場の作業内容を把握する余裕もなく、新規にモルト・ウイスキーを製造開始する塩尻工場への出張命令が下った。当時はモルト・ウイスキー製造の経験のない人達ばかりだったので、醸造試験所での実験経験を見込まれての命令であったようだ。
3月下旬、新宿駅より蒸気機関車に乗車し、中央線で塩尻に向かった。中央線は新宿から名古屋に通じ、塩尻で分岐した篠ノ井線は松本を経由して長野方面に通じていた。塩尻駅で下車し古い宿場町を通り、町のはずれで線路を渡って西に抜けると、桔梗ヶ原の入り口に壽屋塩尻工場があり、その周辺からコンコード、ナイヤガラ等の葡萄畑が延々と広がっていた。
塩尻駅を下車しても、上記のような駅前風景には出会えない。
著者が乗降した塩尻駅は、400m程東京寄りにあった旧駅舎である。
旧駅舎のホーム跡。
線路が右にカーブした先が、新駅舎。
旧駅舎では、中央本線から篠ノ井線(塩尻-長野市・篠ノ井駅)が、松本方面にY字型に分岐していた。
そのため名古屋駅から松本・長野方面に向かう特急列車は、塩尻駅でスイッチバックする必要があった。
これを解消するため、1982年に塩尻駅を松本寄りに移設し、東京方面から来る列車と名古屋方面から来る列車が塩尻駅で合流し、そのまま篠ノ井線に乗り入れができるようにした。
新駅舎の2階コンコースから写す。
左が東京方面(400m先に旧駅舎跡)、右が名古屋方面(線路を新設)。
1987年の国鉄分割民営化後は、JR東日本が中央東線(東京駅-塩尻駅)と篠ノ井線、JR東海が中央西線(塩尻駅-名古屋駅)と管轄が分かれた。
JR塩尻駅の西口を出ると、目の前がサントリー塩尻ワイナリー。
線路に沿って南下してワイナリーが切れたところで右折すると、著者のいう桔梗ヶ原の入り口である。
閑話休題。
桔梗ヶ原は、当時「長野県東筑摩郡宗賀村字桔梗ヶ原」といった。塩尻の町から葡萄畑の間を抜ける県道を通って約2㎞進むと、右側に塩尻工場がある。この工場は桔梗ヶ原の中央に位置し、桔梗ヶ原の生産ブドウを利用する目的で現在の五一ワインの創設者である林五一氏等の誘致で昭和13(1938)年に創設された。現在では醸造用ブドウのメルロの集荷場となっている。
モルト・ウイスキーの製造免許は昭和27(1952)年3月5日に認可された。立地条件も悪く宣伝効果もない辺鄙な場所が何故選ばれたのか不思議に思われることがあるが、それはさまざまな理由からであったという。当時、蒸溜所の免許は、監督官庁の方針として新規には絶対に許可しない原則であった。しかし執拗な申請の結果、塩尻工場には果実酒とブランデーの免許があり、蒸溜設備も所持し製造していた実績も勘案され、限定免許としてモルト・ウイスキー製造免許が認可されたとのことである。
スタート時の主たる設備は、
■ クラッシャー式麦芽粉砕機
■ 糖化槽 (2kl)
■ 麦汁濾過層 (2kl。底部に2㎜程の刺孔を多数あけた鉄板を取り付けた)
■ 木桶発酵槽 (2kl)
■ ポットスチル1基 (2.5kl。粗、精溜兼用)
既有設備の転用が多かった。
仕込み用水は、素掘りの深さ15m程の井戸に集水する水のみであった。
仕込み開始は、記録によると昭和27(1952)年3月29日である。すべて試験室の田中室長の指導で製造開始した。
田中さんは私が赴任して10日間程で帰京したので、その後の製造はすべて新参者の私に任された。酒造りの実務経験の乏しい私は不安と忸怩たる思いのうちに過ごしていた。
田中さんをはじめ多くの先輩は「3年貯蔵すれば良くなるだろう」との希望的観測だったが、香味が乏しく青臭いので、果たしてこれが樽熟成をした他社のモルト・ウイスキーのようなタイプになるだろうかという不安が絶えず私の頭をよぎった。
そうこうして製造開始から2ヶ月程で、仕込み用水は浅井戸のため不足をしてきた。深井戸新設の間、やむなく休転に追い込まれた。私も出張期間連続2ヶ月程で帰宅することになったが、今考えると、新入社員が初めから長期出張して一つの仕事を任される事態、なんと貧弱な体制かと寒気がする思いであった。しかし、この期間に税務署の対応事務、従業員とのコミュニケーション等、学ぶことが多くあって、長い会社勤務において参考になった。
昭和27(1952)年
3月
関根彰氏、大黒葡萄酒に入社。
3月5日
モルト・ウイスキー製造免許が認可。
3月29日
製造開始。
2ヶ月後
仕込み用水不足のため、大黒葡萄酒のモルト・ウイスキー製造の第1年目が終わる。
【参考図書】
■ ある洋酒造りのひとこま (関根彰著。平成16年6月24日発行、たる出版刊)
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