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余市蒸溜所(1)。



昭和9(1934)年3月1日
竹鶴政孝(以下、敬称略)は、壽屋(現サントリー)を退社。

同年7月2日
「大日本果汁株式会社」を設立。
社長は置かずに、竹鶴が代表取締役専務(昭和18年に社長)に就任した。

独立して自分でウイスキーづくりをすることを決心した私は、まずつくればすぐ売れるジュースを販売しながら、ウイスキーを育てることにし、加賀証券をやっておられた加賀正太郎さんに相談した。
加賀さんは山崎の自宅の近所に住んでおられ、妻のリタが奥さんに英語を教えていた関係もあって親しくしていた。次いで、帝塚山で近所におられた芝川又四郎さん、英国時代からの知り合いで食通であった柳沢伯爵の三人の応援を得て、(四人が出資して)とりあえず資本金十万円の会社をつくることに決めた。
工場の予定地は、前から目をつけていた北海道余市にためらうことなく決めた。

伯爵の柳沢保恵は、貴族院議員、第一生命保険相互会社社長。日本統計学の祖といわれた人物で、資金よりもその名声で有力な支援者となった。
芝川又四郎は、摂津酒造時代に、阿部喜兵衛社長が竹鶴のために手配した大阪帝塚山の邸宅の家主という縁で知り合った。
加賀正太郎とは、竹鶴が壽屋・山崎工場長時代に自宅が近所で、懇意にしていた。

竹鶴に北海道余市の土地を紹介したのは余市で酒造業を営んでいた但馬八十次。但馬の妹が神奈川県知事・池田宏に嫁いでおり、当時神奈川県横浜で壽屋ビール工場にいた竹鶴と面識があった。



なぜ会社名に「ウイスキー」の一語を使わなかったのか?
加賀正太郎の証言によれば、竹鶴は最初、果汁製造を事業とするとして、資金援助の依頼をしたらしい。
「昭和9(1934)年の春、竹鶴氏は突然大阪今橋の加賀商店を来訪された。用件は林檎汁製造の問題であった。アップル・ジュースの製造をやりたいので、芝川・加賀両家の応援を求められたのであった。壽屋社長鳥井氏と別れて、直ちにウヰスキー工場を造って、せりあう意思は全然無いというお話であった」 (加賀正太郎「ニッカ十五年の思い出」より)
竹鶴政孝の真面目な性格からして、日本で初めての本格ウイスキーづくりを経験させてくれた鳥井信治郎と事業上で競合することについて道義上許されるか否か、大いに悩んだはずだ。「恩を仇で返す」という日本語がまだ日本で通用した時代だった。

昭和10(1935)年5月
ニッカ林檎汁(アップルジュース)発売。
ウィスキー発売を契機に「ニッカ」ブランドを使い始めたと思いがちだが、第一号の商品からニッカの名を冠していた。



アップルジュースは売れなかった。
創業2年にして大借金、大苦難の連続で、大阪で開かれた役員会では加賀たちが会社を投げ出さねばならないのでは、と逃げ腰になっていた。それを止めたのは芝川で、「1年、2年で事業を投げ出すものではない。加賀家が協力する限り、私は竹鶴の技術を信じてどこまでも守り立てる覚悟である」と論陣を張った。
「この役員会でニッカ更正の方策は決められたが、現実の対策は実に悲惨なものであった。当分役員から工員に至るまで無昇給、経費は極度に節約する事、株主には勿論無配である。竹鶴氏もこれから洋服はおろか、ワイシャツ一枚も買われなかった年が続いたように思う」 (芝川又四郎回顧談「小さな歩み」)

返品が続く。
「竹鶴さんが、秋になるとどんどん返品があるからそれをどうしようかと言うと、加賀さんは加賀さんらしく、いっそ津軽海峡に捨ててしまったらいいと言い出したが、捨てるなら余市の工場へ送り返してもらって、カルバドス(アップルブランデー)を造り、それを直接販売もするが、日本にたくさんあるインチキウイスキーの原料に、樽売りして損失をカバーすると言いました。そして、ニッカウヰスキーという名前で売っても、ウイスキーの原料が入っていないのに、どうしてつくるのかと言われたら困るから、麦を買ってウイスキーをつくりたいと言い出してきた。そこで私と加賀さんは竹鶴君はとうとう本音を出してきた」 (芝川「小さな歩み」)
竹鶴が資本家たちを少しずつ懐柔して本音のウイスキーづくりにこぎつけるまでのやりとりが見えて、面白い。

この年の末、蒸溜器一基(初溜、再溜を兼用)を導入。

昭和11(1936)年8月
大日本果汁北海道工場に、ウィスキー、ブランデー製造免許下付。
秋から、蒸溜を始める。

昭和15(1940)年10月
「ニッカウヰスキー」、「ニッカブランデー」発売。



  字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
  字は、「琥珀色の夢を見る(竹鶴政孝とニッカウヰスキー物語)」より。

     余市蒸溜所(1)。
     余市蒸溜所(2)。
     カフェ式連続蒸溜機。

#ニッカウヰスキー

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